第2話 6回の意味
3回叩いたら、6回返ってきた。
その事実を朝になってもまだ考えていた。空室のはずの隣から、壁越しに音が返ってくる。しかも2倍。昨夜は夢だと思いたかった。だが目覚めた今も、あの音の感覚は耳に残っている。規則正しく、間隔の正確な、6つの音。
偶然だ、と思おうとした。建物の構造音か、配管の振動か。古いマンションだから、何かの拍子に音が響くこともあるだろう。でも「3回」に対して「6回」というのは、あまりにも整然としている。ただの物理現象にしては、完璧すぎるほどだ。
朝日が窓から差し込む中、天井を見つめながらそう考えていた。仕事に行く前に、何度か頭の中で昨夜の出来事をなぞり直した。3回、叩いた。壁に手をあてて、ゆっくりと、三度。すると壁の向こうから、同じペースで、でも2倍の回数で、返ってきた。あれは本当に起こったことなのか。
昼間、廊下に出て隣の部屋の前に立った。仕事から帰ってきた時間帯だったが、建物は静寂に包まれていた。隣の部屋のドアは古びた木製で、すりガラスの明かり取りが曇っていた。光源がないのか、中は暗い。郵便受けには何も入っていない。表札もない。
子どもの頃住んでいた家を思い出した。近所の空き家が怖かった。ずっと誰も出入りしない家。幽霊が出るだとか、そういう話を友人たちがしていた。その家はいつの間にか取り壊されていたが、今その空き家の感覚がよみがえってきた。隣の部屋はそういう場所なのだろうか。
耳を澄ましても、中からは何も聞こえない。水音も、人の気配も、テレビの音も。本当に誰もいないのかもしれない。だとしたら、昨夜の6回の音は何だったのか。
管理会社に電話した。受付の女性が出て、テナント情報を確認してくれた。「隣の部屋って、今入居者いますか?」と、できるだけ自然な声で聞いた。
担当者は少し間を置いた後、「現在は空室になっております」と答えた。その言い方は静かで、疑いをよせつけない物事的なトーンだった。「何かありましたか?」
「いえ、気になっただけです」と言って電話を切った。心臓が少し速くなっていた。
夕方、その事実が一層重くのしかかってきた。空室。つまり、誰もいない。なのに音がした。何が起こったのか、考えるほどに頭がくらくらしてきた。説明のつかないことが起こった。そういう経験は人生で初めてだった。
その夜、また2時になった。
いつもより早く寝床に入り、壁の音を待ちながら布団の中で息を殺していた。待つ、という行為が自分でも不思議に思えた。怖いはずなのに、なぜ待つのか。確かめたいのか。それとも、昨夜のことが本当だったと証明してほしいのか。
時計の針が2時を指した瞬間だった。
3回。
やはり来た。低く、規則的に。昨夜と同じ、穏やかで、しかし明確な3つの音。壁全体が微かに振動しているのが感じられた。
今夜は、叩き返さなかった。
返さずに、その音をじっと聞いていた。6回返ってくるのを待ったが、今夜はそれ以上の音は聞こえなかった。3回だけ。向こうは呼びかけているのか。それとも確認しているのか。
布団の中で、握りしめた拳が汗ばんでいた。
──(第3話へつづく)
ピンバック: 壁の向こうの声 第1話「引越し初日」 – 真夜中の1ページ