「あさひ……そう、わたし、あさひ」
名前を取り戻した少女は、少しずつ、思い出しはじめた。
ピアノが好きだったこと。発表会で、うまく弾けなくて悔しかったこと。母が、いつも、練習を見ていてくれたこと。
記憶が戻るたび、あさひの姿は、少しだけ、はっきりしていった。最初は、夜に溶けそうなほど淡かったのに、今は、ちゃんと、そこにいる。
「でもね」と、あさひは言った。「思い出すほど、こわくなるの。どうして、わたしの時が止まったのか。それを思い出したら、きっと、つらいことがわかってしまう気がして」
僕は、うなずいた。時が止まる人には、必ず、理由がある。前へ進めなくなるほどの、何かが。
「無理に思い出さなくていい。君のペースで」
「でも、あなたは、いつまで、付き合ってくれるの? 時計番の仕事が、あるでしょう」
「あるよ。でも、君のところに寄るのも、僕の仕事のうちだ」
あさひは、少し笑った。
「あなたは、自分のことは思い出せたの? 名前とか」
僕は、首を振った。
「思い出せない。気づいたら、時計番だった。名前も、昔のことも、何も」
「じゃあ、おそろいね。二人とも、迷子」
迷子。その言葉が、妙にしっくりきた。
その夜、僕たちは、止まった花時計を挟んで、ぽつぽつと話した。あさひの、覚えている限りの思い出を。僕は、それを、ひとつずつ、聞いた。
聞きながら、僕は、不思議な感覚に襲われた。あさひの思い出のなかに、時々、僕の知っている風景が混じるのだ。この公園。あの音楽教室。母親の、後ろ姿。
まるで、僕も、その場にいたことがあるかのように。
「ねえ」と、あさひが言った。「あなたって、ほんとに、初めて会った気がしないの。前に、どこかで」
僕も、そう思っていた。でも、思い出せなかった。
花時計の針が、止まったまま、僕たちを見ていた。
その文字盤の花が、夜露に濡れて、静かに光っていた。