その日から、私は夜、鏡を見ないように努めた。
帰宅すると、廊下では下を向き、突き当りの鏡を視界に入れないまま、足早に部屋へ入る。目を合わせなければいい。老女はそう言った。
でも、見ないと決めると、余計に気になった。今、鏡のなかの私は、どんな顔をしているのだろう。私と同じように下を向いているのか。それとも——こちらを、見ているのか。
私は、前の住人のことを調べはじめた。
管理会社に電話をして、それとなく聞いてみた。担当者は言葉を濁したが、粘ると、少しだけ教えてくれた。
前の住人は、三十代の女性。私と同じくらいの歳だった。一年ほど前に、突然、失踪した。部屋には荷物がすべて残されていて、玄関は内側から施錠されていた。ベランダにも出た形跡はなく、まるで、部屋のなかから消えたようだった、と。
事件性はなかった、と担当者は言った。だから、こうしてすぐに次を貸せたのだ、とも。
電話を切ってから、私は部屋のなかを見回した。作りつけのクローゼットの奥に、何か貼り紙のようなものが残っていることに、初めて気づいた。
前の住人が、剥がし忘れたのだろうか。近づいて見ると、それは小さなメモだった。かすれたボールペンの字で、こう書かれていた。
『あれは、わたしじゃない。だんだん、あれのほうが、本物になっていく』
背筋が凍った。
メモは、まだ続いていた。裏返すと、震えた字で、こうあった。
『鏡の中のわたしは、もう、わたしより先に動く。わたしが、あれの遅れた影になっていく』
私は、メモを取り落とした。
先に動く。遅れた影。
昨日、鏡のなかの私は、こちらを向いていた。私が背を向けているのに。
あれは、もう、私を追っているんじゃない。私を、追い越そうとしている。
窓の外は、もう暗かった。廊下のほうで、蛍光灯が、じじ、と鳴りはじめた。