第4話: あさひの時間

「あさひ……そう、わたし、あさひ」

名前を取り戻した少女は、少しずつ、思い出しはじめた。

ピアノが好きだったこと。発表会で、うまく弾けなくて悔しかったこと。母が、いつも、練習を見ていてくれたこと。

記憶が戻るたび、あさひの姿は、少しだけ、はっきりしていった。最初は、夜に溶けそうなほど淡かったのに、今は、ちゃんと、そこにいる。

「でもね」と、あさひは言った。「思い出すほど、こわくなるの。どうして、わたしの時が止まったのか。それを思い出したら、きっと、つらいことがわかってしまう気がして」

僕は、うなずいた。時が止まる人には、必ず、理由がある。前へ進めなくなるほどの、何かが。

「無理に思い出さなくていい。君のペースで」
「でも、あなたは、いつまで、付き合ってくれるの? 時計番の仕事が、あるでしょう」
「あるよ。でも、君のところに寄るのも、僕の仕事のうちだ」

あさひは、少し笑った。

「あなたは、自分のことは思い出せたの? 名前とか」

僕は、首を振った。

「思い出せない。気づいたら、時計番だった。名前も、昔のことも、何も」
「じゃあ、おそろいね。二人とも、迷子」

迷子。その言葉が、妙にしっくりきた。

その夜、僕たちは、止まった花時計を挟んで、ぽつぽつと話した。あさひの、覚えている限りの思い出を。僕は、それを、ひとつずつ、聞いた。

聞きながら、僕は、不思議な感覚に襲われた。あさひの思い出のなかに、時々、僕の知っている風景が混じるのだ。この公園。あの音楽教室。母親の、後ろ姿。

まるで、僕も、その場にいたことがあるかのように。

「ねえ」と、あさひが言った。「あなたって、ほんとに、初めて会った気がしないの。前に、どこかで」

僕も、そう思っていた。でも、思い出せなかった。

花時計の針が、止まったまま、僕たちを見ていた。

その文字盤の花が、夜露に濡れて、静かに光っていた。

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