第4話 針が変わる
翌朝、目が覚めた瞬間に違和感があった。
枕元に置いた銀の羅針盤が、昨日とは違う方向を指していたのだ。文字盤に刻まれた東西南北を見つめても、針は動かない。その先は北西。昨日は真東を指していたはずなのに。
心臓が早くなった。まさか壊れたのか。たった一日しか経っていないのに。
あれだけ期待を膨らませていた分、落胆は大きかった。震える手で羅針盤を握り、セラの店に駆け込んだ。
「針が変わった。壊れてるんじゃないか?」
無理をして声を平静に保とうとしたが、焦りが滲み出ていたのだろう。セラはそれに気づいたのか、棚を整理する手を止めた。
「壊れてないよ。場所が変わったんじゃなくて、あなたが変わったの」
セラは振り返り、その言葉を静かに告げた。老いた顔に浮かぶ微笑は、どこか諭すような優しさに満ちていた。
「俺が?何も変わっていないはずだが」
「昨日どこかに行ったでしょ。そこで何か変わったはず。それによって、次に行くべき場所も変わる」
セラの言葉で、老地図師の声が蘇った。あなたに必要なものが、そこにある──あの神秘めいた言葉が、ようやく形を持ち始めた。
「つまり、行き先は俺の状態によって変わるってことか?」
「そう。固定された目的地なんてないの。羅針盤はあなたの今に応答してる。あなたが今、何を必要としているのか、羅針盤はそれを知ってるんだよ」
頭が整理されていった。これは地図というより、むしろ鏡に近い。自分の心が映り込んでいて、その深さや向きに応じて指針が変わる。そんな不思議な仕組みなのか。
セラは棚の整理に戻ったが、その背中の佇まいは、これ以上何も言わないという意思を示していた。
新しい方向を辿ることにした。
羅針盤を握りしめ、北西へと足を進める。道は次第に狭くなり、やがて舗装された地面は土の小道へと変わった。野の香りが強くなり、周囲には背丈ほどの雑草が生い茂っている。こんな道、昨日まで意識したこともなかった。
やがて丘が見えてきた。緩やかな傾斜を登ると、周囲を見下ろす小さな広場に出た。木製のベンチが一脚、無造作に置かれている。朽ちかけた木の色は、この場所がどれほど古いのかを物語っていた。
そこには何もなかった。
人工物といえばそのベンチだけ。周囲には建物もなく、店もなく、人けもない。ただ风が吹いていて、草が揺れていた。それだけだ。
落胆が胸をよぎった。これが羅針盤の指す場所か。こんなところで何ができるというのか。
だが、ベンチに腰を下ろすと、不思議なことが起こった。
それまで頭の中を占めていた雑念や不安が、少しずつ薄れていくのだ。呼吸が自然と深くなり、思考が整理されていく。昨日の出来事も、セラとの会話も、羅針盤の謎も、全てがしばし遠ざかった。あるのは、風の音と、草の匂いと、自分の存在だけ。
時間がどのくらい経ったのか、判然としなかった。だが確かに、ここにいることで何かが満たされていく感覚があった。
必要なものが「何もなさ」のときもある。
その思いが静かに心に降りてきた。
羅針盤を握りしめた手の力が、ゆっくりと抜けていった。
──(第5話へつづく)