取り壊し前日。俺は一つの実験をした。
一番小さな子の手を引いて、一階まで下り、正面玄関へ向かった。もし外に出られるなら、この子たちは救われる。
玄関のガラス扉が、目の前にあった。外には、街灯に照らされた歩道が見える。あと数歩。
「行くぞ」
俺は子どもの手を握り直し、扉を押した。冷たい夜風が流れ込んでくる。俺は片足を、外へ踏み出した。
その瞬間、子どもの手が、俺の手をすり抜けた。
振り返ると、子どもは扉の内側で立ち止まっていた。まるで、見えない壁に阻まれたように。
「でられない」子どもが泣きそうな声で言った。「わたしたちだけじゃ、でられないの」
「どうすれば出られるんだ」
子どもは、俺をじっと見上げた。
「おにいさんが、なかにいてくれたら。おにいさんが、とびらをおさえて、まってくれたら、でられる」
俺が、内側に残って、扉を開けて待つ。そうすれば、この子たちは外に出られる。だが、それは――俺がビルと運命を共にする、ということだ。取り壊しのとき、俺はここにいなければならない。
扉を押さえたまま。子どもたちが全員、外に出るまで。
迷った。俺には俺の人生がある。こんなことに、命を懸ける義理はない。逃げればいい。今なら、まだ逃げられる。
だが、子どもの、顔のない顔を見た。二十年間、母を待ち続けた子どもたちを。
俺は玄関から中に戻り、扉に手をかけた。
「わかった。明日、俺が扉を押さえてる。お前たち、全員、外に出ろ。おうちに帰れ」
子どもの顔に、ぱっと光が差した気がした。のっぺりとした顔に、確かに、目と鼻と、笑顔が浮かんだ。
「ありがとう、おにいさん」
その夜、俺は最後の見回りをした。全フロアの子どもたちに、明日のことを伝えて回った。彼らは静かに、嬉しそうに、頷いた。
明日、俺はこのビルと一緒に、消えるかもしれない。それでも、後悔はなかった。