第8話: 営業前の席

透さんが厨房に戻ったのは、それから一月後だった。

退院しても、母親と交代で、無理のない範囲で。私はときどき、営業前の店に通うようになった。コインランドリーの代わりに、焼きたての匂いの中で、彼の仕事を眺める時間。

カウンターの隅に、私専用みたいな席ができていた。校正の赤入れを持ち込んで、彼がパンを焼くあいだ、私はゲラを読む。互いに黙って、それぞれの手を動かす。あの、沈黙が会話みたいな時間が、場所を変えて続いていた。

「これ、新作」ある朝、透さんが小さなパンを差し出した。中に何かが練り込まれている。かじると、ほのかな塩味と、香ばしさ。

「美味しい。なんですか、これ」

「みお、って名前にしようと思って」

私はむせそうになった。「え」

「澪って、水路のことだって言ったろ。深いところ。だから、水をたっぷり含んだ、しっとりしたやつにした」彼は照れもせずに言う。「毎朝いちばんに焼く。看板商品にする」

毎朝いちばんに、私の名前のパンを焼く。それがどういう意味か、鈍い私にも、さすがに分かった。顔が熱くなって、私はゲラに視線を落とした。

「……採用です」やっと言った。「誤字脱字、ゼロですね」

透さんが声を出して笑った。オーブンの熱で、店内が暖かかった。

そのとき、店の電話が鳴った。彼が出て、短く応対する。戻ってきた彼の顔が、少し曇っていた。

「取材だって。地元の情報誌。『みお』が評判になってるらしい」

「すごいじゃないですか」

「それがさ」彼は言いにくそうにした。「取材の人が、昔この店をやってた……相棒のこと、知ってる人らしくて。何を聞かれるか」

過去が、まだ彼の中で片づいていない。私は赤ペンを置いた。この原稿には、まだ直すべき箇所が残っているらしかった。

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