第8話: 二つの心拍

少年は、田所さんの前にしゃがみ込んだ。

「兄ちゃん」小さな声だった。「まだ、あの日のこと、覚えてるの」

田所さんは、言葉が出ないようだった。ただ、涙が頬を伝っていた。

「俺、川に落ちたの、兄ちゃんのせいじゃないよ」少年は言った。「足、滑らせたの、俺だもん。兄ちゃんは、助けようとして、手、伸ばしてくれた。届かなかっただけ」

「でも、俺は」田所さんの声が震えた。「俺は、生き残った」

「うん。生き残ってくれて、よかった」少年は笑った。「じゃないと、俺のこと、覚えててくれる人、いなくなっちゃうもん。兄ちゃんが生きてる間、俺は、兄ちゃんの中で生きてた。ずっと、二人分だったんでしょ」

二人分。田所さんが、二人分働き、二人分生き、その心拍を、ウォッチに二つ刻み続けた理由。

「もう、いいよ」少年は手を差し出した。「かわらなくていい。誰にも渡さなくていい。俺と一緒に、行こう」

田所さんは、震える手で、その小さな手を握った。

その瞬間、俺の手首で、ウォッチが熱を持った。見ると、二つあった心拍のグラフが、ゆっくりと重なり、一本になっていく。二人分だったものが、やっと、二人のまま、一つの安らかなリズムを刻んでいた。

田所さんが、俺を振り返った。疲れた顔から、憑き物が落ちていた。

「悪かったな。巻き込んで。あんたの言うとおりだ。押しつけちゃ、いけなかった」

「弟さんに、謝れたか」

田所さんは、少しだけ笑った。「謝るんじゃなくて、ありがとうって、言えたよ」

二人の姿が、光の中に溶けていく。最後に少年が、こちらに手を振った。

俺は、眠りの底から、ゆっくりと浮かび上がっていった。

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