鐘が鳴り終わる前に、律は影繕い処へ駆け込んだ。
「朔を、妹の影を、連れて帰りたいんだ!」
老婆は糸車を回しながら、静かに言った。「連れて帰って、どうする」
「一緒に、暮らす。本体はなくても、影だけでも。ずっと待たせたんだ。もう、独りにしたくない」
老婆は、律をじっと見た。「影は、本体があってこそ、この世にいられる。本体のない影は、いずれ薄れて、消える。桜の下にいられたのは、あの木が、思い出の楔になっていたからだ。連れ出せば、朔の影は、もっと早く消える」
律は言葉を失った。
「それに」老婆は続けた。「おまえの影を見な」
律は、はっとした。影刻はもう終わっているのに、律の足元に、影が戻っていない。逃げたときのまま、律には影がなかった。
「おまえの影は、まだ迎えの途中だ。朔の影を桜に置いてくるか、連れて帰るか。おまえが決めるまで、戻れない」老婆は言った。「連れて帰れば、おまえの影は戻る。だが朔は、じきに消える。置いてくれば、朔はまた桜の下で、次の誰かを待ち続ける。永遠に」
残酷な二択だった。律は、うつむいた。
「……朔は、何を望んでる?」
老婆は、初めて、ほんの少し優しい声になった。
「それを、朔に聞いてやるのが、兄さんの役目じゃないのかい。影の言葉は、本音で聞けば、届くもんだよ」
律は顔を上げた。答えは、もう、心のどこかにあった。ただ、それを認めるのが、怖いだけだった。
朔は、きっと、待ち続けることも、連れ出されて早く消えることも、望んでいない。
本当に望んでいるのは――たぶん、もっと、優しいことだ。
次の影刻。律は、そのために、桜の下へ戻る決心をした。今度こそ、朔の本当の望みを、聞くために。