《会いたいです》
私がその三文字を書いたのは、蒸し暑い七月の夜だった。書いた瞬間、自分でも驚いた。ルール違反だ。近づいたら壊れる。彼がそう言ったのを、私はちゃんと覚えていた。
それでも、もう我慢できなかった。彼の声を聞きたい。彼がどんな表情で紙を書いているのか、この目で見たい。光と紙だけのやりとりでは、もう足りなくなっていた。
対岸の彼は、長いあいだ動かなかった。私は後悔した。困らせてしまった。せっかくの関係を、自分の欲で壊してしまうかもしれない。紙を下ろそうとしたそのとき、向こうの窓に紙が掲げられた。
《僕もです。ずっと、会いたかった》
涙が出そうになった。同じだったのだ。彼も、この距離をもどかしく思っていた。
《でも、こわいんです》と彼は続けた。《実際に会って、がっかりされたら。今のこの関係が、なくなってしまうのが》
その気持ちは、痛いほどわかった。私だってこわい。理想の相手を、勝手に作り上げているだけかもしれない。会えば、ただの疲れた大人どうしだと思い知るだけかもしれない。
それでも、私は書いた。
《がっかりしても、後悔しても、私はあなたに会いたい。今の関係が壊れてもいい。ちゃんと、目を見て話したい》
手すりを握る手に力がこもった。運河の水面が、街の灯りをちらちらと揺らしていた。
やがて、対岸に大きな紙が掲げられた。震えるような、けれど確かな字で。
《じゃあ、次の満月の夜に。運河にかかる橋の真ん中で》
私は空を見上げた。月は、あと三日で満ちる。