ある夕暮れ、店にやってきたのは、身なりのいい初老の紳士だった。彼は、これまでのお客さんと違った。取りに来たのではなく、預けに来たのだ。
「わたしは、あるものを手放したい」と彼は言った。「持っていると、苦しくて仕方がない」
「何を、預けたいんだい」うめさんが尋ねた。
紳士は、深く息を吸った。「憎しみだ。長年、ある人物を憎んできた。若いころ、わたしを裏切り、すべてを奪っていった男を。もう、その男は死んだ。それなのに、憎しみだけが、わたしの中に残り続けている。この歳になって、こんなものを抱えたまま死ぬのは、まっぴらだ」
うめさんは、めずらしく厳しい顔をした。
「憎しみは、預かれるよ。だが、いいのかい。それは、あんたの人生の、大きな一部だった。手放したら、ぽっかり穴が空くかもしれない」
「かまわない。むしろ、その穴に、別の何かを入れたい。手遅れかもしれんが」
うめさんは、新しい木箱を用意した。紳士が箱に手をかざすと、彼の中から、黒くよどんだものが、するすると抜け出していった。それが箱に収まると、紳士の表情が、ふっとやわらいだ。何年も張り詰めていた糸が、ほどけたように。
「……軽い」彼はつぶやいた。「こんなに、軽かったのか」
うめさんは、その箱に札をつけた。《手放された、長すぎた憎しみ》。そして、それを店の奥の、特別な棚にしまった。
「あんた、これから何をしたい」うめさんが聞いた。
紳士は、少し考えて、微笑んだ。「絶縁したままの、息子に会いに行こうと思う。あの男を憎むあまり、家族にまで、つらく当たっていた。謝りたい」
彼が帰ったあと、私はうめさんに聞いた。「預かった憎しみは、どうするんですか」
「浄めて、土に還すのさ」うめさんは言った。「憎しみも、もとは誰かを大事に思う気持ちから生まれる。だから、丁寧に扱ってやるんだよ」