レイに背中を押され、俺は会社帰りに、あの喫茶店へ寄った。「珈琲 とまり木」という、こぢんまりした店だ。
カウンターの中に、いつもの店員さんがいた。三十代半ばくらいの、笑顔の優しい女性。名札には「藤沢」とある。
「いらっしゃいませ。あら、久しぶりですね」
覚えていてくれた。それだけで、心臓が跳ねた。
コーヒーを注文して、俺はしどろもどろに世間話をした。天気のこと、最近寒いこと。我ながら、面白くもない話だ。
「お客さん、最近、少し雰囲気変わりましたね」藤沢さんが言った。「前は、なんだか、疲れた顔してたけど。最近、元気そう」
「え、そうですか」
「うん。ごはん、ちゃんと食べてます?」
俺は、思わず笑ってしまった。
「実は……最近、自炊、始めたんです。ゆで卵とか、野菜炒めとか。簡単なものですけど」
「へえ! いいじゃないですか。何がきっかけで?」
俺は、一瞬、答えに詰まった。まさか「しゃべる冷蔵庫に説教されて」とは言えない。
「……身近な、口うるさいやつに、発破をかけられまして」
「ふふ、いいご家族ですね」
家族。俺は、レイの顔——顔はないが——を思い浮かべて、なんだかおかしくなった。
その日、俺は藤沢さんと、けっこう長く話した。彼女も一人暮らしで、料理が好きなこと。休みの日は、市場で新鮮な食材を探すのが趣味なこと。
「今度、おすすめの野菜、教えてくださいよ」と俺が言うと、藤沢さんは笑って「じゃあ、常連さんになってくださいね」と返した。
家に帰って、俺は思わずレイに報告した。
「レイ! 話せたぞ、藤沢さんと。今度、野菜のこと教えてくれるって!」
「ほう。それはよかった」レイは、少し嬉しそうだった。「ちなみに、あなた、今、私に向かって、はしゃいでいる自覚はありますか」
「……ある」
「三十九歳の男が、冷蔵庫に恋の報告を。まあ、悪くない光景です」