透さんからカードをもらってから、一週間ほど経ったころ。
仕事が朝までかかった日、私は原稿を送ったあと、その足で彼のパン屋へ向かった。会いに行くつもりはなかった。ただ、名前と住所だけ知っている店の前を、一度見てみたかった。
路地の奥に、小さな明かりがともっていた。まだ看板も出ていない時間。ガラス越しに、白い上着の透さんが見えた。オーブンの前で、彼は真剣な横顔をしていた。コインランドリーで見る、ゆるんだ表情とはまるで別人だった。
見つかる前に帰ろう。そう思ったのに、ちょうど彼が焼きたての天板を運んできて、目が合ってしまった。
驚いた顔のあと、透さんはドアを開けた。「まだ営業前だよ」
「知ってます。通りかかっただけで」
嘘だとばれている顔で、彼は私を中に入れた。店内は暖かくて、小麦とバターの匂いで満ちていた。あのニットの匂いの、源泉だった。
「一個、焼けたばっかりのがある。味見してよ」
差し出されたのは、まだ湯気の立つクロワッサンだった。かじると、外はぱりっと、中はしっとり、幾層もの層がほどけて溶けた。あまりの美味しさに、私は言葉を失った。
「……なんで、こんなに美味しいものを、夜中に一人で作ってるんですか」
透さんは少し笑った。「朝に間に合わせるには、夜中に作るしかない。誰かの一日の始まりのために、俺の一日が終わっていくんだ。悪くないよ」
誰かの始まりのために、自分の一日を終える。その言葉が、じんわり胸に染みた。私の仕事も、少し似ている。誰かが安心して読める本のために、夜、間違いを直している。
「また来ていいですか」
聞くと、彼は天板をオーブンに戻しながら、背中で答えた。「コインランドリーで会うより、まぶしいけどな」
窓の外が、白みはじめていた。私にとっての夜明けが、彼にとっての一日の終わりだった。