ある夜、番組で告知があった。
「来月、『ミッドナイト・キョウコ』、初の公開収録をやりまーす。会場は駅前のホール。リスナーのみんな、来てね。……で、特別ゲストとして、あの人を呼びます」
嫌な予感がした。
「ラジオネーム、眠らぬ狼くん。あんた、ステージに上がってもらうから。よろしく」
僕は、飲んでいた麦茶を、盛大に噴いた。
公開収録。人前。ステージ。無理だ。僕は、コンビニの店員と話すのすら緊張する人間だ。電波の向こうだから、キョウコと軽口を叩けるだけで、生身の人間の前で、あの調子を再現できるはずがない。
慌ててメールで辞退を申し出た。「無理です。人前は無理。勘弁してください」
翌日、キョウコが読み上げた。
「狼くんが、ビビってます。かわいいわねぇ」
会場に来ないでください、と念を押したのに。
「いい? 狼くん。あんた、この番組で二ヶ月、毎晩喋ってきた。もう、立派に人を笑わせられる人間なの。それを、電波の中だけに閉じ込めておくのは、もったいない。私はね、あんたが、生身の世界でも、そのままでいられるって、証明したいの」
キョウコの声が、いつになく、真剣だった。
「一回だけ。ステージに立って。それで無理なら、私はもう二度と、あんたを外に引っ張り出さない。約束する。だから、一回だけ、私を信じて」
ずるい人だ、と思った。こんなふうに言われたら、断れない。
僕は、震える指で、返信を打った。「……一回だけ、なら」
送信ボタンを押した瞬間、後悔が津波のように押し寄せた。
でも、心のどこかで、ほんの少しだけ、思っていた。
キョウコに、会ってみたい、と。声しか知らない、あの毒舌の主が、どんな人なのか。この際、確かめてみたい、と。
公開収録まで、あと一ヶ月。僕は生まれて初めて、鏡の前で、喋る練習を始めた。冴えない二十九歳の、遅すぎる青春の、始まりだった。