その夜、私は確かめずにはいられなかった。
下を向いて通り過ぎるだけでは、もう耐えられなかった。あれが、私より先に動くというなら、この目で見なければ。
私は覚悟を決めて、鏡の正面に立った。
蛍光灯が、じじ、と鳴る。曇った鏡のなかに、私が立っていた。
私は、右手を上げようとした。
その瞬間——鏡のなかの私が、先に、右手を上げた。
私が動く前に。私が「上げよう」と思った、その一瞬先に。
手が、止まった。全身が、氷のようになった。
鏡のなかの私は、上げた右手で、こちらへ手招きをした。ゆっくりと、優しく。おいで、と言うように。
私は、上げていない。私の右手は、まだ、体の横に垂れたままだ。なのに、鏡のなかの私は、手招きを続けている。
違う。もう、あれは私じゃない。
メモの言葉が、耳の奥でよみがえった。あれのほうが、本物になっていく。私が、あれの遅れた影になっていく。
私は、後ずさろうとした。
でも、足が動かなかった。まるで、鏡のなかの私が「まだ動くな」と命じているように。私は、あれの動きを待たなければ、動けなくなっていた。
鏡のなかの私が、一歩、前に出た。鏡の面に、手のひらをつけた。ぴたり、と。
ガラスの向こうから、押してくる。手のひらの跡が、白く、こちらへ盛り上がってくる。
私は、渾身の力で、目を閉じた。
見なければ。目を合わせなければ。老女の言葉に、必死ですがった。
目を閉じた暗闇のなかで、私は、ようやく足を動かした。壁づたいに、手探りで、玄関へ。鍵を開け、部屋に転がり込み、後ろ手にドアを閉めた。
ドアの向こう、廊下から、こつ、こつ、と音がした。
私の足音に、よく似ていた。
でも私は、もう、部屋のなかにいる。