第4話: 藍の事情

その夜以来、私は時々、真夜中の水族館を訪れるようになった。

不思議なことに、扉は探そうとすると見つからない。けれど、心に何かを抱えて眠れない夜、ふと路地を曲がると、あの青い光がそこにあった。

藍は、いつも同じエプロン姿で、水槽の世話をしていた。言葉たちに餌をやり、弱った言葉を手前の明るい水槽へ移し、光を失いかけた言葉を、そっと見守っていた。

「藍さんは、どうしてこの水族館の飼育員になったんですか」

ある夜、私は尋ねた。藍は、水槽を見つめたまま、少し黙った。

「僕もね、昔、言えなかった言葉があったんです」
「藍さんにも?」
「ええ。とても大切な人に、たったひとつ、伝えたい言葉があった。でも、言えなかった。そのうち、その人はいなくなって……僕はずっと、その言葉を探していたんです。この水族館に、たどり着くまで」
「その言葉は、見つかったんですか」

藍は、寂しそうに首を振った。

「僕の言葉は、いちばん奥の、いちばん深いところに沈んでいます。もう、光を失いかけている。自分の言葉なのに、どうしても、すくい上げられないんです」
「どうして」
「飼育員は、他人の言葉は返せても、自分の言葉だけは返せない。それが、ここの決まりなんです。だから僕は、こうして人の言葉を返し続けながら、いつか誰かが、僕の言葉を見つけてくれるのを待っている」

藍の横顔が、青い光に沈んでいた。

「藍さんが伝えたかった言葉は、なんだったんですか」
「……それは、言えないんです。言ってしまえば、探す意味がなくなる。誰かに見つけてもらって、初めて意味がある言葉だから」

彼が、この水族館にどれだけ長くいるのか、私にはわからなかった。何年も、あるいは、もっと。

人の言えなかった言葉を返し続けながら、自分の言葉だけを、いつまでも返せずにいる青年。その優しさと寂しさが、深い水槽の底で、静かに光っている気がした。

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