第4話: 桜の記憶

昼のあいだ、律は川べりの桜を確かめに行った。

対岸の、あの木。近づいてみると、それは古い桜で、幹に小さな木の札がかけてあった。掠れた字で、こう書いてある。「妹へ」。

妹。律には、妹はいない。一人っ子のはずだ。

だが、その二文字を見た瞬間、胸の奥が、ずきりと痛んだ。理由のわからない痛みだった。

家に帰って、律は母に聞いた。「うちに、昔、妹がいた?」

母の手が、止まった。長い沈黙のあと、母は静かに言った。

「……いたわ。あなたが五つのとき。二つ下の、妹が」

律は息をのんだ。まるで覚えていなかった。

「病気で、亡くなったの。あなたは、まだ小さくて。あの子と、この街の川べりでよく遊んでた。桜の木の下で。あなた、あの子の手を引いて、いつも歩いてた」

手をつないで歩いた記憶。あれは、妹だったのだ。

「どうして、教えてくれなかったの」

「あなたが、あの子のことで、あんまり泣くから」母は目を伏せた。「だんだん、思い出さなくなって。私も、あえて言わなかった。忘れたほうが、あなたが幸せだと思って。……間違ってたのかもしれない」

律は理解した。逃げた影が向かおうとしているのは、あの桜だ。律自身が忘れてしまった、妹との記憶の場所。

影は、律の知らない、律の本音を知っている――老婆の言葉が、よみがえった。

律の心の底では、ずっと、妹に会いたがっていた。忘れたふりをしていた、いちばん深いところで。だから影は、そこへ行こうとしている。律が置き去りにした想いを、迎えに。

その夜、律は影刻を待った。今夜こそ、影と一緒に、あの桜の下へ行こう。

それが、忘れていた妹に、もう一度会う道なのだとしたら。

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