昼のあいだ、律は川べりの桜を確かめに行った。
対岸の、あの木。近づいてみると、それは古い桜で、幹に小さな木の札がかけてあった。掠れた字で、こう書いてある。「妹へ」。
妹。律には、妹はいない。一人っ子のはずだ。
だが、その二文字を見た瞬間、胸の奥が、ずきりと痛んだ。理由のわからない痛みだった。
家に帰って、律は母に聞いた。「うちに、昔、妹がいた?」
母の手が、止まった。長い沈黙のあと、母は静かに言った。
「……いたわ。あなたが五つのとき。二つ下の、妹が」
律は息をのんだ。まるで覚えていなかった。
「病気で、亡くなったの。あなたは、まだ小さくて。あの子と、この街の川べりでよく遊んでた。桜の木の下で。あなた、あの子の手を引いて、いつも歩いてた」
手をつないで歩いた記憶。あれは、妹だったのだ。
「どうして、教えてくれなかったの」
「あなたが、あの子のことで、あんまり泣くから」母は目を伏せた。「だんだん、思い出さなくなって。私も、あえて言わなかった。忘れたほうが、あなたが幸せだと思って。……間違ってたのかもしれない」
律は理解した。逃げた影が向かおうとしているのは、あの桜だ。律自身が忘れてしまった、妹との記憶の場所。
影は、律の知らない、律の本音を知っている――老婆の言葉が、よみがえった。
律の心の底では、ずっと、妹に会いたがっていた。忘れたふりをしていた、いちばん深いところで。だから影は、そこへ行こうとしている。律が置き去りにした想いを、迎えに。
その夜、律は影刻を待った。今夜こそ、影と一緒に、あの桜の下へ行こう。
それが、忘れていた妹に、もう一度会う道なのだとしたら。