第10話: 手首の重さ

半年が過ぎた。

俺は新しいスマートウォッチを買った。今度は新品だ。睡眠も心拍も、当たり前のように正常を刻む。午前三時に何かが起きることは、二度となかった。

田所さんのウォッチは、今も戸棚の奥にある。捨てられなかった。あれは俺にとって、恐怖の記録であると同時に、一つの命が――いや、二つの命が、やっと救われた証でもあったから。

ときどき、深夜にふと目が覚めることがある。午前三時ちょうど。そんなとき、俺は戸棚のほうを見る。何も起きない。ただ、静かだ。その静けさが、なぜだか少しだけ、寂しくもあった。

人は、いなくなった恐怖を、少しだけ懐かしむものらしい。あれほど怯えていたのに、田所兄弟のことを思うと、今は不思議と、あたたかい気持ちになる。

先日、片づけ物をしていて、あの絆創膏のことを思い出した。捨てたはずの、使いかけの絆創膏。田所さんの、眠りの傷跡。あれはきっと、彼が生きているあいだに、無意識に手首を掻きむしった跡だったのだろう。二人分を生きる重さに、体が悲鳴をあげていた証。

俺は思う。誰にでも、手放せない後悔がある。それを、誰かに「かわってくれ」と渡したくなる夜が、きっとある。でも、後悔は、抱えたまま前に進むしかない。それを教えてくれたのが、皮肉にも、あの亡霊だった。

今夜も、俺は新しいウォッチをつけて眠る。手首の重さは、もう、怖くない。それは、生きて、また朝を迎えるための、ただの重さだ。

戸棚の奥で、古いウォッチは、電源を切られたまま、静かに眠っている。二つの心拍を、一つに抱いて。

午前三時。俺は目を閉じる。今夜も、誰も歩いてこない。

それは、この世でいちばん、ありがたい静けさだった。(了)

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