第10話: 二人分の影

それから、律は影繕い処へ、礼を言いに行った。

だが、路地の奥に、あの店はなかった。何度探しても、掠れた看板は、どこにも見当たらない。まるで、最初から、なかったみたいに。

律は、少しだけ寂しく、けれど、なぜか納得もして、その場を後にした。あの老婆は、きっと、影を追ってしまった者にだけ、見える店なのだろう。心の底を、のぞく覚悟を決めた者にだけ。

季節がめぐり、春が来た。

律と母は、あの川べりの桜を見に行った。満開だった。影刻のときに見た、月光の桜と同じくらい、昼の桜も美しかった。

花びらが、風に舞う。律は、自分の影を見た。日差しの下、地面に落ちた影は、たしかに一人分の形をしている。でも、律には、わかっていた。その影の中に、もう一人、小さな妹がいることを。

「朔、桜、きれいだな」

律が小さくつぶやくと、足元の影が、ほんの少しだけ、揺れた気がした。風のせいかもしれない。でも、律は、そう思わないことにした。

この街では、今夜も、深夜零時から一時までの一時間、人の影が動き出す。塀の上を歩き、噴水のふちに座り、月を見上げ、本体には言えなかった言葉を、交わし合う。

そして律の影は、今夜も、もう逃げない。窓辺で少しだけ月を眺めて、それから、律のそばへ戻ってくる。二人分の重さを抱えて。

影は、その人が世界にいるという証。

だとしたら、律の影は、二人分の命が、この世にいた証だ。忘れられていた小さな命が、たしかに愛されて、たしかにここにいたという、あたたかい証明。

人は、大切なものを忘れることで、前に進もうとする。でも、本当は、忘れないまま、抱えて進むこともできるのだ。影の中に、そっと、住まわせて。

桜が散る。律の影が、地面で、静かに笑っている――ように、律には見えた。

深夜零時。今夜も、影法師たちの、優しい一時間が、始まる。(了)

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