本の余白に 第7話「声をかけられなかった」

第7話 声をかけられなかった

ゼミで向井さんを見るたびに、声をかけようとした。

でも、何を言えばいいか分からなかった。

「図書館の本に書き込みしてるの、向井さんですよね」なんて言えるわけがない。そんなことを口にしたら、私が本の余白をこっそり読んでいることがばれてしまう。向井さんはきっと驚くだろう。もしかしたら、不気味に思われるかもしれない。

向井さんは、図書館での自分を知られていないと思っている。本の余白の言葉は、不特定多数の誰かに向けて書いているとしても、特定の誰かが読んでいるとは思っていないはずだ。その証拠に、先週のゼミで私と話すとき、向井さんの態度はいつもと変わらず、自然だった。

だとすると、私だけが知っていることになる。

その知識の非対称性が、私の胸に重くのしかかっていた。向井さんが遅すぎると思っていること。素直に言えないと思っていること。本当はどの結末が好きなのか、ということ。全部知っているのに、話したことがない。

ゼミの休み時間、向井さんがコーヒーを買いに席を立つのを見送った。背中が遠ざかるのを眺めながら、私は考えていた。あの人は、もし私が「あなたの書いた言葉、読んでましたよ」と言ったら、どんな顔をするだろう。怒るだろうか。それとも笑うだろうか。

変な関係だと思った。

友人でもなく、知人でもない。けれど、向井さんの本当の考えを知っている。誰にも言えない秘密を共有しているような、そんな奇妙な一体感があった。それなのに、向井さんは私のことを何も知らない。私という人間が、向井さんの言葉を毎日のように追いかけているなんて、夢にも思っていないだろう。

この違和感は、どこから来ているのだろう。

その夜、私は図書館に向かった。向井さんがいつも本を返す時間帯を避けて、夜遅く訪れた。児童文学のコーナーで、先週向井さんが借りていた本を手に取った。余白に新しい書き込みがあるかもしれない。

ページをめくった。

向井さんの筆跡を見つけたとき、心臓が高鳴った。その日のゼミで見た、向井さんの真顔が思い浮かぶ。あの表情の奥には、こんなことを考えていたのか。

すぐ近くの席に座ると、持参したペンを取り出した。私のノートの別ページではなく、決まった本に直接書き込むのは今回が初めてだった。その行為が、私にとってどういう意味を持つのか、よく分かっていなかった。

ためらったが、指は動いていた。

『知っている人に会うのって、緊張しますよね』

ペンを置いて、自分が書いた言葉を見つめた。これは向井さんへのメッセージなのか、それとも自分への言い訳なのか。その境界も、もうあいまいになっていた。

図書館の蛍光灯が、白々と天井を照らしていた。

──(第8話へつづく)

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