第5話 図書館で見かけた
赤いボールペンの人を探していたわけじゃなかった。
あれ以来、私は本の余白に書かれた赤いコメントのことばかり考えていた。返却期限が来た本たちを返すために図書館に足を運ぶことも多くなった。でも、その人に会いたいわけではなく、ただその人がどんな本を読んで、どんなことを考えているのか、そういう痕跡が見たかったのだ。本の余白に残された、その人の思考の跡を。
でも、ある日図書館の奥の席で、文庫本のページをめくりながら何かをメモしている男性を見た。
赤いボールペン、だった。
その瞬間、心臓がずっと止まっているような感覚に襲われた。私は思わず足を止めて、返却カウンターへ向かう動きを中断してしまった。図書館の奥の席というのは、できるだけ人目につかない、静かな場所である。その椅子に腰かけているのは、背の高そうな男性で、眼鏡をかけていて、少し無精ひげが見える。年は私より上に見えた。大学の先輩くらいだろうか。
近づいて確認することはできなかった。
もし近づいて、もし相手に気づかれたら、私は何と言うのだろう。「あの、あなたが本の余白に書いたコメント、私も読んでます」なんて、そんな不気味なことは言えない。私は新しく借りた本を抱えたまま、その人の姿を横目で眺めながら、図書館の別の通路へと身を隠した。
でも気になって、遠くから少し見てしまった。
その後、私は返却カウンターの近くの本棚の陰から、何度かその男性の様子を盗み見た。彼は全く周囲を気にしていない様子で、相変わらず集中して本を読んでいた。時々、ページをめくる手が止まる。その時の彼の表情が印象的だった。眉をひそめて、何か深い思考に沈んでいるような、そういう顔つきをしている。時々口元が動く。ひとりでつぶやいているのかもしれない。
大学の先輩っぽい。静かに本を読んでいて、時々少し眉をひそめて、時々口元が動く。ひとりで物語に反応している。
その光景は、妙に親密な感じがした。誰もが見てはいけない、その人の内面世界に触れているような、そんな気がしたのだ。本の世界に没入して、心の中で登場人物たちと会話している。その誰にも邪魔されない、静寂に包まれた時間。
似てるな、と思った。
私も一人で本を読みながら、心の中でいろんなことを言っている。時には登場人物に怒ったり、時には共感したり、時には無意識のうちに何かを呟いている。その人も、そういうふうに本と向き合っているんだ。本という世界を通じて、何かを感じ、何かを考えている。赤いボールペンで余白にコメントを残すのは、その思考をどうしても記録に残したいという衝動からなのではないか。
そう思うと、その男性への興味は、本への興味へと変わっていった。どんな本を読んでいるのか、どんなことを考えているのか。赤いボールペンの先端が何度も何度も紙の上をすべらせるのはなぜか。
翌日、彼が読んでいた棚の本を一冊確認した。
図書館の奥の席の近くに、一冊の本が置いてあった。その日は彼の姿は見えなかったが、その本が彼の読んでいたものだと確信できた。タイトルは古典文学。ページの間には、貸出票が挟まっていた。返却期限はまだ先である。
そっと最後のページを開いて、奥付を確認した後、余白を見た。
余白に、赤い字があった。
小さく、丁寧に、その人の思考が書き残されている。本の内容に関連した言葉、その人が感じたこと、考えたこと。その赤い字を眺めていると、何か言葉にならない感覚が胸の奥に広がった。
間違いなかった。
これはその人の思考の痕跡だ。その人の心が、本の余白に降り積もった雪のように、そっと積もっているのだ。
(第6話へつづく)