第8話 音が止まる夜
三日間、壁の音がしなかった。
返事をやめたからかもしれない。壁の向こうの何かに対して、こちらが応答するのをやめてから、あの規則正しい三回の叩音は鳴らなくなった。それとも別の理由があるのか。真実は壁の向こうにしかない。
静かになったことで、逆に落ち着かなかった。音がある時は、少なくとも相手の存在を確認できた。返事をすることで、自分も相手も同じ現実にいるという実感が持てた。だが今は違う。沈黙だけが部屋を満たしている。
三日間の静寂は、長く感じられた。昼間は仕事に出かけるから気がまぎれるが、夜間に部屋に戻ると、その静けさが一層際立つ。壁に耳を当てても、壁をノックしても、何の応答もない。置き去りにされたような不安がのしかかった。
四日目の夜、廊下に気配がした。
いつもと違う時間帯だった。深夜の零時を回った頃だ。足音ではない。ただ空気が動いているのを感じた。居間のテレビを消し、息を詰めて耳を澄ませた。
ドアスコープを覗いた。誰もいなかった。
廊下は薄暗く、誰の姿も映っていない。それなのに、確かに何かが存在していることを感じる。長く住んでいたはずのこの部屋で、こんな違和感を覚えたことはない。
でも気配は消えない。ドアの向こうに、確かに何かがある。空気の重さが違う。それは重苦しさとは異なる。むしろ、何かが寄せられてくるような、圧力を感じない接触感覚だ。
耳を澄ました。
壁の音とは異なる何かが聞こえていた。叩く音でもなく、スリッパで歩く足音でもない。もっと微細で、柔らかい音だ。
呼吸音ではない。だが規則的な何かがあった。
何度も耳を凝らして聞いていると、徐々に音の正体が見えてくるような気がした。触覚で感じるような、その音。
10秒に1回、かすかな音。
そのリズムは、あの三回の叩音と何か関係があるのかもしれない。もしかして、その音の代わりに、それが来ているのかもしれなかった。返事をやめた者を呼ぶための、別の方法として。
スマホの録音アプリを起動して、ドア下の隙間に向けた。スピーカーを床に向けたまま、そっと静寂に戻した。夜明けまで、その音は続いた。
翌朝、目が覚めた時には既に日が昇っていた。夜中に何度か目が覚めた記憶がある。その度に、あの規則的な音が響いていた気がする。
録音を聞いた。
規則的な音は確かに入っていた。10秒に1回というリズムは変わらない。ただし、昨夜聞いたそれよりも、より明確に音として記録されていた。
そして、音と音の間に、かすかに何か言っているような声が混じっていた。
何を言っているかは、聞き取れなかった。
イヤホンで何度も再生した。ボリュームを上げたり下げたりして、その声を浮き立たせようとした。しかし音声は常にかすれており、はっきりとした言葉にはならない。
ただ、何度聞いても、名前を呼ばれているような気がした。
自分の名前だ。壁の向こうの何かが、何度も何度も、自分の名前を呼んでいるのではないか。その確信は、根拠のない不安と表裏一体だった。
──(第9話へつづく)
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