第1話 桐島さんの法則
バイト初日、俺は先輩から一枚の紙を渡された。
その紙はA4サイズで、少し黄ばんでいた。おそらく何度も印刷し直されたものなのだろう。タイトルは「桐島さんのルール一覧(2026年6月現在)」と書いてあった。「現在」という記載が妙にリアルだ。
内容を読み進める。
・注文を取るとき、テーブルは必ず左回りで回ること
・厨房から出るときは必ず右足から出ること
・食器を重ねるのは最大3枚まで
・雨の日は一球多く投げる(意味不明)
最後の項目で思わず吹き出しそうになった。意味不明だと自分たちで記載しているのだ。
「これ……守らないといけないんですか?」と、俺は紙を手に先輩を見た。
桐島さん——バイト歴3年の先輩——はにこりともせずに答えた。「義務じゃない。でも合理的だから守ってる」
合理的。その言葉が引っかかった。三十路前後の普通そうな顔をした先輩が、こんなルール一覧を作成して実行しているのだ。何か理由があるはずだった。
「左回りが合理的な理由は?」と、俺は確認を取った。
桐島さんは、ホールの風景を眺めるような視線で答えた。「日本のほとんどのテーブルが右利き仕様で配置されてるから、左回りのほうが歩数が少ない。試してみれば分かる」
歩数が少ない。つまり効率化の話だ。それはまあ、合理的かもしれない。
「分かりました」と返事をして、その後、実際に試してみた。
テーブルを左回りで回る。右回りと比べて……うーん、わからん。正直なところ、どちらでもいい気がした。むしろ右回りの方が自然な気がするくらいだ。
でも桐島さんは、それでも涼しい顔をしていた。
その日の営業は混雑していた。初バイトの俺は右往左往し、注文を間違え、グラスを倒しかけ、何度も先輩に助言をもらった。そんな中でも、桐島さんはいつも同じペースで、同じ動きで仕事をしていた。左回りで回り、右足から厨房に出て、食器は3枚までに揃える。
営業終了間際、俺はようやく気づいた。
桐島さんの動きは、確かに無駄がない。他の先輩たちと比べても、一番スムーズだった。歩数だけでなく、身体の向きや重心の移動も効率的になっているのかもしれない。
「あ、あの……左回り、試してたんですけど」と俺は声をかけた。
「そう。どうだった?」
「えっと……」言葉に詰まった。「わかりませんでした」
桐島さんは、少し笑った。「そっか。まあ、意識しすぎると逆に動きが硬くなる。毎日やってりゃ、体が覚える」
そう言って、桐島さんはカウンターの奥へ消えていった。
俺は改めてルール一覧を見た。四項目すべてが、相応の理由があるのだろう。そして「雨の日は一球多く投げる」というのは——。
「あ、すみません」と桐島さんに声をかけた。「雨の日は一球多く投げるって……」
「あ、それはね」桐島さんは少し困ったような顔で返答した。「まだ理由が分かってない。でも確実に、雨の日にそうすると調子がいいんだよ。科学的根拠はない。ただ、経験則だ」
そっか。すべてが合理的とは限らないのか。でも先輩は守り続けている。
その時点で、俺はまだ知らなかった。この桐島さんという人物が、これからの俺のバイト人生において、どれだけ「変な」影響を与えるのかを。
──(第2話へつづく)