同居初日に田中は言った。「ルールを決めよう」
僕は「いいよ」と言った。その一言が、全ての始まりだった。
引っ越しから三時間後。段ボール箱がまだリビングに積み重なったままの状態で、田中は突然、クローゼットから厚めのノートを取り出した。その真摯な表情を見て、冗談ではないことが分かった。
田中が取り出したのはA4のノート。表紙に黒いマジックで「共同生活規約 第一版」と書いてあった。
「これ、前のルームメイトとの失敗から学んだんだ」と田中は前置きした。何か事情がありそうだったが、詮索しないことにした。
「第一条」と田中は読み上げた。「冷蔵庫は左右で分割する。左が俺、右がお前」
「まあいいけど」僕は返事をした。これくらいならまともなルールだと思った。
「第二条。深夜のコンビニ遠征は事前申告制とする」
「なんで?」
「買い物が被ると悲しいから」
その理由があまりに純粋で、反論の言葉が喉に引っ掛かった。
第三条以降が問題だった。
「第三条。深夜2時以降にカップ麺を食べる場合、麺をすする音は最大デシベルを規定する」
「規定できる話じゃないだろ」僕は思わず笑ってしまった。
「できるんだよ。意識の問題。俺も気をつけるから」田中は真剣だった。
「第四条。笑い声は23時以降、口に手を当てること」
「何見て笑うんだよ深夜に」
「俺はたまに夜中にお笑い動画見て爆笑するんだよ」
初めて知った情報だった。昼間の無口な田中が、深夜にはお笑い動画で爆笑しているという事実に違和感を覚えた。同時に、何か親近感が湧いた。
「第五条。シャワーの時間は朝7時から夜9時までとする」
「なんでそんな厳しいの?」
「夜中のシャワー音で目覚めるんだ。俺、深い眠りなんだけど、水音で目覚める。だから申告があれば別だけど」
「なるほど」
ページをめくる音が静かにリビングに響いた。
「第六条。冷房の設定温度は相談制。一方的な変更禁止」
「これ、けっこう大事だな」
「そ。前のやつはいきなり28度にされて、真冬みたいになった」
第七条から第十二条までは、生活の細かい時間帯に関する規約が続いた。洗濯機の使用時間、トイレットペーパーの補充ルール、ゴミ出しの曜日、玄関の靴の整列方法。どれも具体的で、一つ一つに田中の過去の同居経験から来るトラウマのようなものが感じられた。
「第十三条。友人や恋人を連れてくる場合は事前通知。泊まる場合は要相談」
ここは納得できた。むしろ必要なルールだと思った。
「第十四条。リビングでの食事は21時まで」
「これはなぜ?」
「夜遅くまで食べてると、眠くなる前に次の日の朝が来るんだよ。生活リズムが狂う」
理屈っぽい男だなと思ったが、言ってることはちょっと分かる気がした。
全部で十七条あった。
「第十五条。冷蔵庫の中身に関する質問は禁止」
「…え?」
「これはプライバシーだ」
「でも一緒に住んでるし」
「それでもプライバシーは守りたい」
田中の瞳に、微かな決意が宿っていた。この条項に関しては、何か特別な背景があるのかもしれない。
「第十六条。相手の部屋には許可なく入らない」
「当たり前じゃん」
「当たり前のことこそ、文字にすべき」
「第十七条」田中は少し間を置いた。「どちらかが不満に思ったことがあれば、その場で話し合うこと。一方的な我慢はなし」
この最後の条項は、それまでの細かさから一転して、驚くほど柔軟だった。
最後に田中は言った。「署名して」
「これ法的効力ある?」
「ない」
「じゃあ意味は?」
「誠意」と田中は言った。真顔で。
その言葉の重さに、僕は何も言い返せなかった。
僕は署名した。自分の名前を書きながら、この同居生活がなんだか特別なものになるかもしれない、そんな予感がした。なんか負けた気がした。だけど、悪い気分ではなかった。
翌朝、冷蔵庫の境界線がマスキングテープで引いてあった。
──(第2話へつづく)
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