第9話: 影が戻る

一時の鐘が鳴った。

影刻が終わり、律の影が、足元に、するりと戻ってきた。

家に帰る道すがら、律は何度も自分の足元を見た。街灯の下、月の下、律の影は、ちゃんとそこにあった。前より、ほんの少しだけ、輪郭がやわらかく、あたたかく見えた。

朝、母が、律の足元を見て、目を潤ませた。

「戻ったのね」

「うん」律はうなずいた。「それと、母さん。俺、朔に会ってきた」

母が、息をのんだ。

律は、桜の下でのことを、全部話した。忘れていた記憶のこと。待ち続けていた朔の影のこと。そして、朔が、律の影の中に、一緒に住むことを選んだこと。

母は、静かに泣いた。悲しみの涙ではなかった。長いあいだ、二人が心の奥に閉じ込めていた朔を、やっと、明るいところに出してやれた、そういう涙だった。

「これからは、三人だな」律は言った。「俺と、母さんと、朔と」

母は、涙をぬぐって、微笑んだ。「そうね。今度の休みに、あの桜を、見に行きましょう。ちゃんと、家族で」

昼の桜は、もう季節ではなく、葉ばかりだった。でも、律には、その木が、以前よりずっと、生き生きして見えた。妹の影が、長いあいだ、独りで守っていた場所。もう、独りじゃない。

律は、幹の「妹へ」の札に、そっと手を触れた。

その夜も、影刻は来た。律は、もう外へは出なかった。眠りながら、自分の影が、床から起き上がるのを、なんとなく、感じていた。

影は、今夜は逃げなかった。ただ、窓辺で、月をしばらく見上げて、それから、律のそばに、静かに戻ってきた。

二人分の影が、月明かりの中で、寄り添って眠っていた。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

上部へスクロール