次の影刻。律は、桜の下で、朔の影と向き合った。
「朔」律は、しゃがんで、影と目線を合わせた。「おまえは、どうしたい? 俺と一緒に来るか? それとも、ここで、待ってるか?」
小さな影は、しばらく、じっとしていた。それから、ゆっくりと、首を横に振った。どちらも違う、というように。
《にいちゃん》
律の頭に、幼い声が響いた。あの、舌足らずの声だった。
《朔ね、もう、待つの、つかれちゃった。でも、消えるのも、いや。ずっと、ひとりだったから。にいちゃんに、会いたかったの。それだけ》
「会えたよ」律は言った。「もう、会えた」
《うん。だからね、朔、もう、いい。にいちゃんが、朔のこと、思い出してくれた。忘れないでいてくれるなら、朔、消えても、へいき》
「消えるなんて、言うなよ」
《消えるんじゃないの》影は、笑ったようだった。《にいちゃんの中に、帰るの。影は、本音でしょ? 朔、にいちゃんの、影の中に、いっしょに、住むの。そしたら、もう、ひとりじゃない》
律は、悟った。朔の望みは、連れて帰ることでも、待ち続けることでもない。律の影の中に、一緒に溶けて、律とともに生きること。
忘れられていた妹を、今度こそ、忘れずに、心に抱いて生きること。それが、朔の、本当の望みだった。
律の影が、朔の影に、手を差し伸べた。朔の影が、その手を取る。二つの影が、ゆっくりと、重なりはじめた。
小さな影が、大きな影の中に、溶けていく。桜の花びらが、二人を包むように、舞い散った。
《にいちゃん、ありがと。朔、もう、さびしくない》
最後の声が、風にまじって、消えていった。
桜の下に、律の影が、一つだけ、残った。前より、少しだけ、濃くなった影が。
律は、その影を、そっと抱きしめようとして――やっぱりすり抜けたけれど、たしかに、二人分の温もりを、感じた気がした。