小さな影は、桜の木の下で、律を見上げていた。
「おまえ……朔(さく)、なのか」
名前が、口をついて出た。妹の名前だ。忘れていたはずの、たった二文字。それを口にした瞬間、幼い日の記憶が、堰を切ったように溢れ出した。
この木の下で、二人で花びらを集めたこと。朔が転んで泣いて、律がおんぶして帰ったこと。「にいちゃ、にいちゃ」と、舌足らずに呼ぶ声。病室で、痩せた手を握ったこと。そして、その手が、冷たくなっていったこと――。
忘れていたのではなかった。律は、思い出すのが辛すぎて、心の底に、鍵をかけて閉じ込めていたのだ。
小さな影は、ぴょんと跳ねて、桜の幹を指さした。「妹へ」の札のある、あの場所。
律の影が、そっと律に近づいて、耳元で――声のない声で、囁いた。律の頭の中に、直接、言葉が響いた。
《朔の影は、ずっとここにいた。本体が死んでも、影だけは、桜の下で、にいちゃんを待ってた。でも、にいちゃんが忘れてしまったから、ずっと、迎えに来てもらえなかった》
「俺の影が、逃げたのは」
《おまえの心の底が、朔に会いたがってたからだよ。おれは、おまえの本音だ。だから、迎えに来た。おまえの代わりに》
律は、その場に膝をついた。小さな影が、心配そうに、律の顔をのぞき込む。
「ごめん」律は言った。「忘れて、ごめん。会いに来るの、遅くなって、ごめんな、朔」
小さな影は、首を横に振った。そして、律の頬に、そっと手を伸ばした。影の手は、やっぱりすり抜けてしまう。でも、そのひんやりとした感触が、たしかに頬をかすめた気がした。
幼い日の、朔の手のぬくもりが、なぜだか、よみがえった。
一時の鐘が、鳴りはじめた。
影刻が、終わる。