第5話: 川を渡る

零時。律の影が、床から立ち上がった。

今夜は逃げなかった。律の前に立ち、そっと手を差し出す――ように見えた。律は、影の手を取ろうとした。だが、影に触れることはできない。手はすり抜けてしまう。

影は、それでいいというように、先に立って歩き出した。律はついていった。

川べりに着いた。対岸の桜が、今夜もぼんやりと花をつけている。だが、川には橋がなかった。さっきまであったはずの古い橋が、影刻の中では、消えていた。

「どうやって、渡るんだ」

律の影が、水面を指さした。見ると、川の上に、たくさんの影が浮かんでいた。人々の影が、手をつなぎ、水の上に橋を作っている。影の橋だ。

「渡っていいのか」

影の一つが、うなずいた。律の影が、先に橋の上に乗る。律も、恐る恐る足を踏み出した。影たちは、律の重みを、しっかりと支えた。

川の真ん中で、律は下を見た。水面に、月と、無数の影が映っている。その中に、ひときわ小さな影が、混じっているのが見えた。

子どもの、影だった。

律の胸が、跳ねた。

対岸に着く。桜の木が、月光の中で、満開だった。花びらが、音もなく散っている。

その木の下に、小さな影が立っていた。律の腰ほどの背丈の、女の子の影。

律の影が、その子のそばに歩み寄った。二つの影が、向かい合う。そして、大きいほうの影――律の影が、小さい影の手を、そっと取った。

幼いころ、律が妹の手を引いて歩いた、あの形のままに。

律は、その場に立ちつくした。目から、勝手に涙がこぼれていた。理由は、もう、わかっていた。

「……ずっと、待っててくれたのか」

小さな影が、こちらを向いた。目はないのに、笑っているのが、律にはわかった。

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