この街には、ひとつだけ秘密がある。
深夜零時から午前一時までの一時間、人の影が、本体から離れて動き出すのだ。
大人たちは、その一時間を「影刻(かげどき)」と呼び、決して外を出歩かない。眠っているあいだに、影がこっそり床から起き上がり、壁を伝い、ときには窓から抜け出して、影同士でおしゃべりをして、一時になる前に、そっと元の場所へ戻る。それが街の、あたりまえのしきたりだった。
本体は、影が何をしていたか、朝には覚えていない。影も、本体には従順で、決して悪さはしない。だから誰も気にしない。ただ、一つだけ鉄則があった。
「影刻に、自分の影を追いかけてはいけない」
十四歳の律(りつ)は、その夜、寝つけずにいた。喉が渇いて、水を飲みに台所へ立った。時計は零時十分。影刻の、まっただ中だった。
月明かりの差す廊下で、律は見た。自分の影が、床から音もなく立ち上がるのを。ゆらりと揺れて、律とそっくりな形をとった影は、こちらを振り返った。目のない顔で、たしかに律を見た。
「……おまえ」律が声を出した瞬間だった。
影が、逃げた。壁を這い、窓の隙間をすり抜けて、夜の街へ飛び出していく。
「待て!」
律は反射的に追いかけた。鉄則を破ったことに気づいたのは、玄関を飛び出したあとだった。裸足のまま、月の下、律は影を追った。
だが、影はどんどん遠ざかる。角を曲がり、路地を抜け、やがて見失った。
気づくと、律は見知らぬ広場に立っていた。そして、あることに気づいて凍りついた。
月に照らされているのに、律の足元に、影がない。
逃げた影は、戻ってこなかった。律は、影を失くしたのだ。
遠くで、午前一時を告げる鐘が鳴った。影刻の、終わりの合図だった。