梅雨に入り、運河は毎晩のように雨に煙った。雨脚が強い夜は、対岸の灯りも滲んで、彼の掲げる紙の文字はほとんど読めなかった。それでも私たちは、灯りの点滅だけで「今日もいるよ」と伝え合った。
ある土砂降りの夜、彼の窓に灯りがつかなかった。午前二時を過ぎても、三時になっても、対岸の三階の端は、暗いままだった。
私は落ち着かなかった。残業で疲れて、灯りを点ける前に寝てしまったのかもしれない。あるいは、単に休みなのかもしれない。理由なんていくらでも考えられるのに、胸の奥がざわついた。
雨の中、私はベランダに立ち尽くしていた。傘もささずに、暗い窓を見つめていた。いつのまにか髪も肩もぐっしょり濡れていた。
——名前も知らない人なのに。会ったこともない人なのに。どうしてこんなに、心配なんだろう。
そのとき気づいた。私は、いつのまにか彼の存在を、生活の中心に置いていた。夜勤の疲れも、眠れない苦しさも、彼に話すことで乗り越えていた。彼のいない夜が、こんなにも心もとないなんて。
午前四時、雨がやみかけたころ。対岸の窓に、ぽっと灯りがともった。
私は思わず声をあげそうになった。すぐに紙が掲げられる。滲んだ字で、こう書かれていた。
《ごめんなさい。体調を崩して寝込んでました。心配しました?》
私は迷わず、大きな字で書いた。《しました。すごく》。書いてから、素直すぎる自分に驚いた。でも、もう隠す気にはなれなかった。
向こうの灯りが、やわらかく二回、点滅した。まるで、ありがとう、と言うように。