袖を掴んだあの日から、藤代さんはまた店に来るようになった。けれど、以前とは何かが違っていた。
彼は花を買わずに、ただ店を眺めて帰る日が増えた。話しかけても、どこか上の空だった。おばあさんを失った悲しみが、まだ癒えていないのだと思った。
ある水曜日、私は思いきって声をかけた。
「藤代さん。無理に来なくても、いいんですよ」
言った瞬間、彼の表情がこわばった。
「……そうですよね。僕、もう客ですらないのに、居座って」
「違います、そういう意味じゃ」
慌てて訂正しようとしたけれど、彼はもう背を向けていた。
「すみませんでした。もう来ません」
ドアベルが鳴って、彼は雨の中に消えていった。傘も差さずに。私は追いかけることもできず、ただその場に立ち尽くした。
どうして、あんな言い方をしてしまったんだろう。本当は、来てほしかったのに。花を買わなくても、ただそこにいてくれるだけでよかったのに。
その夜、私は眠れなかった。彼の背中が、何度も瞼の裏に浮かんだ。
翌朝、店を開けると、ドアの前に一輪の花が置かれていた。青いワスレナグサ。誰が置いたのか、すぐにわかった。
花言葉は――「私を忘れないで」。
私は震える手で、その花を拾い上げた。彼は、言葉にできない想いを、やっぱり花に託していたのだ。あの日の約束通りに。
「忘れるわけない」
声に出して呟いた。忘れられるはずがなかった。私はもう、とっくに彼のことを――。
エプロンのポケットに花を入れて、私は決めた。今度は、私から会いに行こう。花言葉の返事を、ちゃんと渡すために。