第6話 同じゼミだった
彼が、同じゼミの先輩だと気づいたのは、ゼミの発表の日だった。
教室の前のほうの席に座っていて、発表を聞きながら手元のノートに何か書いていた。赤いボールペンで、ページを埋めるようにして。その姿勢は真摯で、けれどどこか他人事のような距離感があった。
その時点では、まだ彼が誰なのか、気づいていなかった。
ゼミの授業は週に一度、火曜日の三限目。私は毎回、教室の中ほどの右側に座る。視線をあげれば黒板が見えるし、先生の表情も読み取りやすい位置だ。しかし前のほうに座っている学生たちまで、いちいち認識することはない。ましてや、その誰かが何か書いているなんて。
だから、ゼミが終わる直前に、先生が「では、来週も同じメンバーでお願いします」と言うまで、私は気づいていなかった。
名前は向井さんというらしかった。三年生。去年から同じゼミだったのに、話したことはなかった。実のところ、向井さんが誰であるかなんて、その授業の時点では知らなかった。
ゼミが終わると、向井さんはさっさと出ていった。他の学生たちが三々五々、友人同士で談笑しながら教室を後にする中で、向井さんだけは淡白に荷物をまとめて、ドアへ向かった。人と話す感じではなかった。声をかけても、返してくれなさそうな雰囲気。話しかけてはいけない人、という印象を持った。
その日は家に帰って、すぐにあの文庫本を開いた。
あれから毎日、少しずつ読んでいる。あの返事の後、何度も本の余白に目をやっていた。『いつか誰かが同じ気持ちを持ってくれたら』と思いながら書いた感想に、誰かが応じてくれたのだ。それだけで、そんなに嬉しいのか、と自分でも驚いた。
私の「この終わり方、私も好きです」という言葉の横に、また返事が来ていた。
『俺だけじゃなかった。よかった』
よかった、という言葉の素直さに、少し驚いた。
大学生男性の文字とは思えないほど丁寧な字で、その一行が書かれていた。赤いボールペン。ゼミの時に、前の席で書いていた色だ。
本の中では、こんなに素直なんだ。
机に向かったまま、しばらく動けなくなった。あの授業の時に、前のほうの席で赤いボールペンを握っていたのは、この返事を書いている人なのか。ノートに何を書いていたのか。もしかして、この本について、考えていたのか。
可能性は、ゼロではない。同じゼミだし、もしかしたら同じ本を読んでいるのかもしれない。ただし、それ以上のことは、わからなかった。
向井さんが、どんな人なのか。何を考えているのか。なぜこんなに素直に、本の余白に言葉を残すのか。
全部が、謎だった。
明日のゼミで、向井さんをちゃんと見てみよう。そう思った。前のほうの席に座っている、その人の顔を。赤いボールペンを握る、その手を。そして、もしできるなら、その人が何を書いているのか。
本を閉じて、机の上に置いた。ベッドの上で、天井を見つめながら考える。
これから、どうしよう。
── 第7話へつづく