第10話(最終話) 「眠れない夜に会わない?」
送ったのは、短い一文だった。
「眠れない夜に会わない?」
最初に涼花が僕に送った言葉を、そのまま返した。
その瞬間、僕の指は震えていた。何度も何度も推敲した言葉を、最終的には削ぎ落とし、あの言葉だけを残した。涼花への気持ちを隠すことも、もう意味がないと思ったから。これまで深夜の時間の中だけで成立していた僕たちの関係を、ここで一度、言葉にする必要があった。
既読がついたのは、深夜1時を過ぎた頃だった。
僕は息を止めた。涼花も、この時間に起きているのだ。
しばらく返信はなかった。僕はスマホを持ったまま、画面をずっと見ていた。画面の明かりが顔を照らし、暗い部屋の中で一人、僕は待っていた。もしかして嫌だと思われたのか。もしかして気持ち悪いと思われたのか。そんな不安が、頭の中をぐるぐると回った。
10分後、涼haar から返事が来た。
「……来られる? デニーズ」
二行目に続く返信ではなく、質問だった。実行可能性を問う質問。それは返事をくれたも同然だと思った。僕は即座に返信した。「今から」と。
電車を乗り継いで、午前2時に着いた。夜間運行する電車の中で、僕は何度も深呼吸を繰り返した。隣に座った酔っ払いのおじさんは気にしていないようだったが、僕の心臓は高鳴ったままだった。不可逆的な何かが始まろうとしている。そんな感覚があった。
涼花はいつもの窓際の席にいた。ただし、いつもと違う点があった。
でも今日は、コーヒーが二つ並んでいた。
ホットコーヒー。それも、僕が好きだと前に言及した、少し濃い目のブレンドコーヒー。涼花が注文してくれたのだ。さらに、彼女の前には、いつもより丁寧に身なりを整えた涼花がいた。髪も、いつもより少し綺麗に整えられていた。
「私のこと好きでしょ」と、座るなり涼花が言った。
僕は目を見張った。不意打ちだった。でも、そこで虚勢を張る意味はもうない。否定できなかった。
「うん」と言った。短く、正直に。
涼花は窓の外を見た。外はまだ真っ暗だった。街灯の光が、アスファルトを淡く照らしている。「迷惑かと思ってた。私、昼間うまくできないし、ちゃんとした関係とかよくわからないから」と涼花が言った。その声は、いつもより少し小さかった。
僕は彼女の言葉をかみしめた。涼花だって、不安を抱えていたのだ。昼間の世界に適応できない自分を、僕が受け入れてくれるのか。そんな不安を、ずっと抱えていたのだ。
「俺も昼間は苦手だよ」と言うと、涼花が少し笑った。
「嘘つき」
それは僕をからかう笑いだった。でも、その笑顔の中には、安堵も混じっていた。
「でも、深夜の涼花が好きなのは本当だよ」と僕は続けた。
これも真実だ。昼間、疲れた表情で歩く涼花も、夜間アルバイトで疲弊する涼花も、見ていて辛い。でも、深夜のこの店で、窓の外の暗がりを見つめながら言葉を交わす涼花。そういう涼花が、僕は一番好きだった。
しばらく沈黙があった。二人は、コーヒーを飲み、外の景色を見つめた。時計の秒針の音が、いつもより大きく聞こえた。
涼花がコーヒーを一口飲んで、「じゃあ、もう少し話そう」と言った。
「何を?」と僕は聞いた。
「昼間のことも。今までのことも。これからのことも」と涼花が答えた。
それだけで十分だった。完璧な関係じゃなくていい。昼間が苦手で、夜間しか輝けない二人だっていい。この時間の中で、互いに言葉を交わし、互いを知っていく。それで十分だった。
僕たちはコーヒーが冷めるまで話した。涼花の幼少期の話。家庭の問題で、昼間の学校が辛かったこと。なぜ深夜しか外に出られなくなったのか。そういう話を、初めて聞いた。涼花だって、僕の話を聞いてくれた。不眠症の理由。昼間がなぜ辛いのか。そういった秘密を、この夜の中で共有した。
僕たちの関係がどうなるかは、まだわかからない。婚約者になるのか。それとも、ずっと深夜の友人でいるのか。昼間に堂々と歩く恋人同士になれるのか。そういった未来は、霧に包まれている。
でもこの夜が、どこかの始まりだと思った。
二人の関係が、新しい段階へ進む始まり。昼間の世界と決別する始まり。もしくは、昼間の世界へ戻る勇気を持つ始まり。それはまだ、わからない。
外がうっすら明るくなり始めた頃、涼花が「眠くなってきた」と言った。
その言葉に、僕は深い意味を感じた。長年、眠れなかった涼花が、眠くなったのだ。この人といることで、彼女が眠くなるほどの安心感を得られた。それはとても尊いことだった。
「よかった」と答えた。
涼花は僕に身を寄せた。肩を寄せてきたのだ。それは、これまでの彼女にはなかった動きだった。
「ありがとう」と涼花が呟いた。
「こちらこそ」と僕は答えた。
夜明けの景色が、徐々に色づいていく。灰色だった空が、紫になり、赤になり、やがてオレンジになっていく。二人は、その景色をじっと見つめていた。
新しい朝が来ようとしていた。
──(完)