# 壁の向こうの声 第10話(最終話)「正体」
ライトを向けると、椅子は空だった。
確かに誰かがいた。影か、あるいは気配か。でもライトが当たった瞬間、何もなくなった。心臓の鼓動が耳の中で大きく響いた。手にしたペンライトが微かに揺れる。その光の先には、何ひとつ存在しない空間だけが広がっていた。
部屋の中を調べた。荷物は何もない。壁は白く、床は素の木目だった。埃一つ落ちていない。空気すら澱んでいるように感じた。生活の痕跡がない。誰もここに住んだことがないかのような——いや、誰かが住んでいたのに、すべてを消し去ったかのような静寂。
ただ一か所、壁の中央に傷があった。
引っかき傷ではなく、打撃の跡だった。何かで何度も叩いた痕。数えると——三つずつ、並んでいた。規則正しく、意識的に。間隔は完璧に等しい。
前の住人が、叩いていたのだ。
その瞬間、すべてが理解できた。壁を通して聞こえた音——あの不気味なリズムは、隣から来たのではなかったのだ。つまり、壁の音の正体は——隣からではなく、同じ側から来ていた?
混乱しながら自分の部屋に戻った。手は冷たく、呼吸が浅くなっていた。廊下の蛍光灯がちらついく。その瞬間、隣の部屋の壁がまた鳴った。三回、三回、三回。いつもと同じリズム。だが今、その音の意味がわかるような気がした。それは信号ではなく——悲鳴か、それとも警告か。
布団に入って目を閉じた。震える手をしっかりと握りしめた。
そのとき気づいた。自分の部屋の壁にも、傷がある。いつからそこにあったのか分からない。三つずつ、並んでいた。
呆然とそれを見つめた。記憶を遡ろうとした。いつ、自分がそれを作ったのか。だが思い出すことができない。夜中に無意識のうちに——あるいは何かに操られるように——叩いていたのか。
その壁をなぞると、傷は深かった。爪が削れるほどの勢いで何度も何度も。それは自分の手でつけられた傷だ。確信が湧いた。そして同時に、恐怖も湧いた。
翌朝、マンションを出た。荷物をまとめて、そのまま戻らなかった。
新しい部屋に引っ越してから三ヶ月が経った。何事もなく過ぎていく日々。仕事に行き、帰宅し、眠る。普通の生活。だが心の片隅には、常に何かが引っかかっていた。
今も時々、夜中に目が覚める。
その時、自分の両手が壁に向かっていることがある。爪は壁を引っかいている。三回、三回、三回。いつも同じリズム。目が覚めると、壁にはうっすらと傷がついている。
そして無意識に——壁を、叩きそうになる。
けれど踏みとどまる。必死に両手を押さえつける。これ以上は駄目だ。これ以上やれば、自分も何かに取り込まれてしまう。隣の住人のように——いや、前の前の住人のように。
壁の向こうから、また音が聞こえ始めた。三回、三回、三回。
それは隣からか、それとも——壁の中から来ているのか。
──(完)