引越し初日の夜、壁が三回鳴った。
午前2時ちょうど。コン、コン、コン。古いマンションだから、と思った。築30年、配管の音か何かだろう。段ボールの山に囲まれながら、僕は再び横になった。寝不足のせいで思考は朦朧としていた。引越しの疲労が体中に残っていて、その音も遠い世界の出来事のように感じられた。
二日目も、同じ時刻に三回鳴った。
今度は目が覚めていた。布団に横たわり、スマートフォンで時刻を確認した。2時00分。正確すぎる時間に、少し不気味さを感じた。だが疲労は相変わらずで、僕はすぐに目を閉じた。これが毎日続くようなら考えよう。そう思いながら、再び眠りに落ちた。
三日目も。
今度は怖気づいた。毎晩同じ時刻に、同じ回数。これは偶然ではない。何か意図的なものを感じた。会社から帰宅してからずっと、そのことが頭を離れなかった。隣の部屋の壁を見つめた。薄汚れた白い壁。特に異常な様子はない。だが夜2時になると、その壁が鳴るのだ。
管理会社に問い合わせると、隣の201号室は「長期空室」だと言われた。前の住人が退去してから一年以上、誰も入っていないという。空き家である。それが最初の恐怖だった。
「配管の音じゃないですか」と担当者は言った。年配の男性の声は、他人事のように淡々としていた。
「毎晩午前2時ちょうどに、三回だけ?」と僕は聞き返した。
少し間があった。電話の向こうで、何か書き込む音が聞こえた。
「……一度確認してみます」と、担当者は言った。その語調から、彼も奇妙さを感じ始めたのかもしれない。
確認の結果は「異常なし」だった。
翌日、担当者は言った。隣の201号室のドアの前で確認したが、配管にも異常がなかったという。鍵を開けて内部も見たが、完全に空き家だった。家具も何もない。音の発生源は不明だと。ただし、配管や建物の沈下による音の可能性は否定できないと、附け加えられた。
だが僕は信じなかった。その夜、僕は壁に耳をつけて2時を待った。
ベッドから降りて、冷たい床に膝をついた。壁に頬を寄せた。壁紙のざらざらした質感が肌に触れた。心臓がゆっくりと鼓動していた。
やがて、時間が来た。
コン。
音は確かに壁の向こうから聞こえた。すぐそこから。掌一枚の距離。
コン。
二度目。間隔は一秒だろうか。二秒だろうか。
コン。
三度目。そして沈黙。
確かに聞こえた。壁の、すぐ向こうから。それは配管の音ではない。誰かが、意図的に壁を叩いている。そう確信した。
試しに、僕も三回叩いてみた。
拳を握り、壁をたたいた。コン、コン、コン。自分の音が壁を通じて隣の部屋に響き渡る。心臓がより早く鼓動し始めた。
長い沈黙が流れた。一秒。五秒。十秒。
返事が、来た。
六回。
コン、コン、コン、コン、コン、コン。
規則正しく、容赦なく響き渡る音。三回ではなく、六回。倍の数。それはまるで、応答であり、同時に警告のように聞こえた。
僕は壁から離れた。心臓は激しく鼓動していた。隣の部屋には誰がいるのだ。誰も住んでいないはずなのに。壁の向こうで、何かが起きている。何かが、僕を呼んでいる。
──(第2話へつづく)
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