影が消えたあと、部屋には、静寂だけが残った。
焦げたにおいも、冷たい空気も、いつのまにか消えていた。真央は、しばらく動けなかった。全身が、汗でぐっしょり濡れていた。
時計を見ると、午前三時三十分。いつもなら、とっくに点呼が終わっている時間だ。
真央は、その夜、初めて、恐怖ではなく静けさの中で眠りについた。
翌朝、彼女はマンションの外に出て、建物を見上げた。
四〇二号室。木ノ下が、二十年間、点呼を取り続けた場所。
ふと、エントランスの脇に、小さな石碑があることに気づいた。今まで、一度も目に留めたことがなかった。
古びた石碑には、こう刻まれていた。
『管理人 木ノ下 保 ここに眠る。住人を守り、殉じた勇気を忘れない』
二十年前、住人たちが建てたものらしい。だが、長い年月の間に、住人は入れ替わり、この石碑の意味を知る者はいなくなっていた。
木ノ下は、感謝されていた。それなのに、彼自身は、自分が無事だったかどうかを、確かめられないまま逝った。だから、二十年もの間、点呼を取り続けていたのだ。
真央は、石碑の前にしゃがみ、そっと手を合わせた。
「もう、大丈夫ですよ」
風が、優しく吹き抜けた。
その日、真央は花を買ってきて、石碑の前に供えた。長い間、誰も気に留めなかった小さな石碑に、色が戻ったようだった。
その夜――午前三時。
真央は、目を覚まして、天井に耳を澄ませた。
足音は、なかった。声も、しなかった。
ただ、静かな夜が、そこにあるだけだった。
点呼は、終わった。
木ノ下は、ようやく、自分自身の無事を確認して、眠りについたのだ。二十年ぶりの、本当の休息に。