夏の終わり、七海はいつものように階段を降りた。
すると、扉に一枚の紙が貼られていた。
「近日、閉店いたします」
手書きの、素っ気ない文字だった。心臓が、ぎゅっと縮んだ。
扉を押すと、冬野はいつもの場所にいた。けれど、棚の一部が、空っぽになっていた。
「閉店って……どういうことですか」
「そのままの意味だ」冬野は淡々と言った。「ビルの建て替えが決まった。来月には出ていかなきゃならない」
「じゃあ、別の場所で、また」
「もう、やめようと思ってる」
七海は言葉を失った。
「五年やって、区切りだと思った」冬野は空になった棚を見た。「レコードは、少しずつ売り始めてる。あの人のコレクションを、必要としてる人に渡すのも、悪くないと思ってな」
「わたしは」七海の声が震えた。「わたしは、この店を必要としてます」
冬野はこちらを見なかった。
「前に言いましたよね。曲の名前を教えてくれるのは、わたしがこの店を必要としなくなったときだって。わたし、まだ全然、必要としてます。だから」
「七海さん」
初めて、名前で呼ばれた。それだけで、涙がこみ上げそうになった。
「あんたは、この店じゃなくても大丈夫な人だ」冬野は静かに言った。「俺が選ぶ曲がなくても、自分で自分の気分を選べる。そういう強さがある」
「そんなの、冬野さんが決めることじゃないです」
七海は、初めて冬野に食ってかかった。
「わたしが必要としてるのは、店でも、曲でもなくて――」
言いかけて、七海は口をつぐんだ。その先を言ってしまえば、もう後戻りできない気がした。
冬野は、じっと七海を見つめていた。何かを言いかけて、けれど何も言わなかった。
その夜、リクエストはしなかった。店内は、しんと静まりかえっていた。針が落ちる前の、あの沈黙のように。