その夜、七海は初めて終電を逃した。
残業のあと、後輩の愚痴に付き合って居酒屋に入ったのが失敗だった。改札を抜けたときには、ホームの電光掲示板がもう「本日の運転は終了しました」と冷たく光っていた。
タクシー乗り場には長い列。財布の中身を思い浮かべてため息をつき、七海は駅とは反対の路地へ歩き出した。始発まで四時間。どこかで時間をつぶすしかない。
シャッターの下りた商店街を抜けると、細い階段が地下へ続いているのが見えた。「Record」とだけ書かれた古い看板が、青白い灯りに照らされている。こんな時間に開いている店があるのか。
吸い寄せられるように階段を降りると、扉の向こうから、かすかにピアノの音が漏れていた。
押すと、鈴が鳴った。
店内は思ったより広く、壁一面がレコードの棚だった。中央のカウンターに、痩せた男が一人。三十半ばくらいだろうか。前髪の隙間から、こちらをちらりと見た。
「終電、逃しました?」
低い声だった。七海が驚いていると、男は視線を戻してレコードの盤面を布で拭きながら続けた。
「この時間に来る人は、だいたいそう」
座っていい、とも、出ていけ、とも言われない。七海はおずおずと壁際の丸椅子に腰かけた。スピーカーからは、聴いたことのないピアノ曲が流れている。夜の底に溶けていくような、静かな旋律だった。
「これ、なんて曲ですか」
「知らなくていい」と男は言った。「知ってる曲だと、人は聴くのをやめて、思い出すから」
意味はよくわからなかった。けれど、その言葉はなぜか胸に残った。
気づけば、肩の力が抜けていた。会社で強張っていた背中が、少しずつほどけていく。
「あの、コーヒーとか、あります?」
「ないよ。ここはレコード屋だ」
そっけない返事に、七海は思わず笑ってしまった。男は少し不思議そうにこちらを見て、それからまた盤面に目を落とした。
始発まで、四時間。
この夜が、しばらく続く長い夜のはじまりになるとは、そのとき七海はまだ知らなかった。