服部が、隣町の店に戻ってから、半年が過ぎた。
僕の生活は、すっかり変わった。定時で帰り、自炊をして、休日には、菓子を焼く。あの、ぐうたらな深夜生活は、もう、遠い昔のことのようだ。
服部の店は、すぐに、評判を取り戻した。彼の焼く菓子は、やっぱり、絶品だった。手紙をくれた、あの人とも、少しずつ、やり直しているらしい。
僕は、週末になると、玄関から——ちゃんと、玄関から——彼の店に、菓子を習いに通っている。
「師匠、この生地、こんな感じで合ってる?」
「うむ。上出来でござる。だが、卵を割る音が、まだ、雑ぞ」
「まだ言うのか、それ」
忍者を名乗らなくなっても、服部の口調は、相変わらずだった。菓子作りの指導だけは、今も、忍者めいている。
ある日、店で、あの人を、紹介された。
穏やかで、優しそうな人だった。服部のことを、あたたかい目で見ていた。
「あなたが、佐野さんね。この人、あなたのこと、いつも話してるんですよ。天井から挨拶に行ったら、泥棒と間違えられた、って」
「あれは、向こうが悪いんです! ほんとに、あれは!」
三人で、笑った。
帰り際、服部が、僕を、店の外まで見送りに来た。
「佐野殿。改めて、礼を言う。そなたがおらねば、拙者は、今も、あの部屋で、忍者ごっこをしておった」
「それ、もう何回も聞いたよ。それに、礼を言うのは、俺のほうだ。あんたのおかげで、俺、まともな生活、取り戻せたんだから」
服部は、うなずいて、それから、いつもの、目だけの笑みを、浮かべた。
「なあ、佐野殿。ひとつ、頼みがある」
「なんだよ、改まって」
「そなたも、いつか、誰かが、生活を壊して、闇に沈んでおるのを見つけたら」
服部は、僕の肩に、手を置いた。
「そのときは、拙者のように、天井から、忍び込んでやってくれ」
「行かないよ! ちゃんと、玄関から行くよ!」
「はは。それも、よかろう」
夕暮れの町を、僕は、歩いて帰った。
手には、服部から持たされた、焼きたての手裏剣クッキー。
かじると、あの夜と、同じ味がした。あたたかくて、少し、不器用な、優しさの味。
深夜、天井裏から現れた、変な隣人。
あれから、僕の夜は、もう、寂しくない。
今夜も、どこかで、あの忍者は、大切な人のために、菓子を焼いているのだろう。
僕も、そろそろ、何か、焼こうか。
——玄関の鍵を、ちゃんと、閉めてから。