服部の正体を知ってから、僕たちの関係は、少し変わった。
相変わらず、服部は忍者を名乗り、深夜に任務を持ってくる。でも、僕は、もう、本気で嫌がらなくなっていた。
むしろ、任務がない夜は、少し、物足りない。
ある夜、僕は、思いきって、言ってみた。
「服部さん。俺に、菓子作り、教えてくれないか」
服部は、目を丸くした。
「なにゆえ」
「いや……なんか、あんた見てたら、俺も、何か、作ってみたくなって。仕事以外に、打ち込めるもの、ほしくて」
服部は、しばらく黙って、それから、にやりと笑った。
「よかろう。ただし、忍びの修行として、教える」
「なんで忍者縛り」
「拙者の、こだわりゆえ」
こうして、深夜の菓子作り修行が、始まった。
「まず、卵を割る。音を立てず、殻を一片も残さず。これぞ、忍びの手つき」
「卵ひとつに、そこまで求める?」
「菓子作りは、心を映す。雑な者は、雑な菓子しか作れぬ」
服部の指導は、忍者めいているわりに、本格的だった。バターの混ぜ方、粉のふるい方、オーブンの見極め方。ひとつひとつ、丁寧に、教えてくれた。
最初に焼いたクッキーは、炭になった。
「これは……手裏剣というより、鉄球でござるな」
「うるさいな!」
二度目は、生焼けだった。三度目で、ようやく、それらしいものが、焼けた。
形は歪んでいたけれど、味は、悪くなかった。
「上出来でござる」と、服部が言った。「初めてにしては、な」
僕は、自分で焼いたクッキーを、しみじみと眺めた。仕事以外で、何かを作ったのなんて、何年ぶりだろう。
「なあ、服部さん」
「なんでござる」
「あんた、いつか、店に戻るのか」
服部は、オーブンを片付けながら、少し、間を置いた。
「……わからぬ。まだ、こわいのだ。また、あの場所で、うまくやれるか」
「でも、あんた、こんなにうまいのに」
「腕の問題では、ないのだ。心の、問題でな」
服部の背中が、いつもより、小さく見えた。
僕は、歪んだクッキーを、ひとつ、彼に差し出した。
「じゃあ、俺が、あんたの一番弟子だ。師匠が店に戻れるように、俺も、応援するよ」
服部は、振り返って、クッキーを受け取った。
「……かたじけない」
その声が、少し、湿っていた気がした。