眠れないまま、朝を迎えた。
ゴミを出しに廊下へ出ると、隣の部屋のドアが開いた。出てきたのは、七十を過ぎたくらいの老女だった。このマンションに長く住んでいると、以前あいさつしたときに聞いていた。
「おはようございます」
私が言うと、老女はじっと私を見て、それから、突き当りの鏡へ視線を移した。
「あなた、あの鏡の前を、夜に通ってるでしょう」
心臓が跳ねた。
「……どうして、それを」
「顔に出てるもの。寝てない顔だ」
老女は声をひそめた。
「あの鏡はね、夜に見ちゃいけないの。昔から、ここに長く住んでる者はみんな知ってる。だから、夜はみんな、目を伏せて通るのよ」
「あの……何なんですか、あれは」
「さあね。私にもわからない。ただ、昔、あの部屋——あなたの部屋に住んでいた人がね」
老女は言いよどんだ。
「毎晩、鏡と話してるって、噂だったの。廊下で、ひとりで。鏡のなかの自分と」
「その人は、今は」
「ある朝、いなくなった。荷物も何もかも、そのまま。玄関の鍵は、内側からかかってたって」
私は言葉を失った。
「悪いことは言わない。夜は、あの鏡を見ないこと。目を合わせないこと。合わせたら——」
老女は、そこで口をつぐんだ。
「合わせたら、どうなるんですか」
老女は答えず、私の肩ごしに、突き当りの鏡を見た。その顔が、みるみる青ざめていった。
私は振り返った。
朝の廊下。鏡は、私と老女の後ろ姿を映している。
ただ——鏡のなかの私だけが、こちらを向いていた。
私は、鏡に背を向けているのに。鏡のなかの私は、正面から、じっと、私を見ていた。
老女が、ひっと息を呑んで、部屋に引っ込んだ。ドアが、乱暴に閉まった。
私は、動けなかった。