それから毎晩、僕は仕事の合間に、公園へ寄るようになった。
少女の名前を、思い出す手がかりを探すために。
「何か、覚えていることはない? どんな小さなことでも」
「……ピアノの音。どこかで、ピアノを弾いてた気がする」
「上手だった?」
「わからない。でも、指が、鍵盤の形を覚えてる」
少女は、膝の上で、指を動かした。見えない鍵盤を、そっと叩くように。
僕は、その手がかりを持って、夜の町を歩いた。止まった時計を巻きながら、耳をすませた。どこかに、彼女につながる音が、残っていないかと。
数日後、僕は、町外れの古い音楽教室を見つけた。もう閉まっている。でも、その建物のなかの掛け時計が、止まっていた。
僕は、そっと忍び込んだ。埃をかぶったピアノが、一台。その上の時計が、冷たく澄んだ空気のなかで、止まっている。
止まった時計は、いつも、誰かが取り残された場所にある。
僕は、ピアノの蓋を開けた。鍵盤に、指を置いてみる。もちろん、僕はピアノなんて弾けない。でも、なんとなく、一音だけ、鳴らしてみた。
ぽーん、と、澄んだ音が、暗い教室に響いた。
その瞬間、時計の針が、ひとりでに、ぴくりと動いた。
そして、埃の積もった床に、うっすらと、足跡が浮かび上がった。小さな、女の子の足跡。ピアノの前まで続いて、そこで、止まっていた。
僕は、確信した。彼女は、ここにいた。
壁に貼られた、古い発表会のプログラムを見つけた。かすれた文字のなかに、ひとつの名前があった。
『……ソナタ 演奏 あさひ』
あさひ。
僕は、その名前を、そっと口にした。教室の空気が、かすかに、揺れた気がした。
公園へ急いだ。少女に、名前を告げるために。
ベンチのそばで、少女は、いつものように膝を抱えていた。
「思い出したよ。君の名前」
僕が言うと、少女が顔を上げた。
「君は、あさひ、っていうんだ」
その名を聞いた瞬間、少女の瞳から、涙が、こぼれた。