家賃の安さに惹かれて決めた部屋だった。
築四十年の古いマンション。エレベーターはなく、内廊下は昼でも薄暗い。それでも、都心でこの広さと家賃なら文句は言えない。私は仕事を変えたばかりで、とにかく出費を抑えたかった。
初めて内見に来たとき、不動産屋の男が、廊下の突き当りにある鏡を指して言った。
「これ、建てた当時からあるらしいですよ。廊下が暗いから、奥行きを出すためだとか」
古い姿見だった。木の枠は黒ずみ、表面はところどころ曇っている。私の部屋は、その突き当りの、鏡のいちばん近くだった。玄関を出れば、嫌でも自分の姿が正面から映る。
引っ越しの日、荷物を運びながら、私は何度もその鏡の前を通った。段ボールを抱えて往復するたび、鏡のなかの自分も同じように往復した。当たり前のことだ。鏡なんて、そういうものだ。
ただ、一度だけ、妙な感じがした。
両手がふさがっていたので、肩で髪をはらった。そのとき、鏡のなかの私が、ほんのわずか——コンマ数秒だけ、遅れて髪をはらった気がしたのだ。
私は立ち止まって、もう一度、肩を動かしてみた。鏡のなかの私も、同じように動いた。今度は、ぴったり合っていた。
気のせいだ。疲れているのだ。朝から荷物を運びっぱなしで、目が変になっているだけ。
そう思って、私は部屋に入った。
その夜、荷ほどきを終えて、ゴミを出しに廊下へ出た。深夜一時をまわっていた。
廊下の蛍光灯が、じじ、と鳴っていた。突き当りの鏡が、暗がりのなかで、ぼんやりと私を映していた。
私が手を挙げると、鏡のなかの私も手を挙げた。
ただ、やっぱり——ほんの少しだけ、遅れて。