深夜専門のタクシー運転手になって、三年になる。
夜の街は、昼とはまるで違う顔をしている。信号の赤が濡れたアスファルトに滲み、コンビニの灯りだけがぽつぽつと島のように浮かぶ。私はその海を、ひとりで漕いでいく舟のようなものだ。
乗ってくるのは、終電を逃した酔客か、夜勤明けの疲れた人か、あるいは眠れない誰か。みんな昼間の言葉を家に置いてきたみたいに、口数が少ない。私はそれが嫌いじゃない。むしろ、昼の饒舌よりずっと信用できる気がしていた。
その人に初めて気づいたのは、雨の降りそうな火曜の夜だった。
みなと橋の手前の角。街灯の下に、コートの男がひとり立っていた。手を挙げるでもなく、ただ道の向こうを見ている。通り過ぎようとして、なぜか私はブレーキを踏んだ。
窓を下げると、男はほんの少し驚いた顔をした。
「……乗っても、いいですか」
「どうぞ。どちらまで」
「岬の、灯台まで」
ずいぶん遠い。この時間に灯台へ行って、どうするつもりだろう。そう思ったけれど、私は何も聞かなかった。行き先を詮索しないのが、夜のタクシーの礼儀だ。
男は後部座席の窓に頭をあずけ、流れていく街を見ていた。ミラー越しに見えるその横顔は、三十を少し過ぎたくらい。疲れているのに、どこか静かだった。
灯台に着くと、男は料金をきっちり払って、「ありがとう」とだけ言って降りた。海のほうへ歩いていく背中を、私はしばらく見送った。
黒い海に、白い光が規則正しく回っていた。
あの人は、あそこで何を待っているんだろう。
そんなことを考えたのは、久しぶりだった。夜の客の顔なんて、いつもすぐに忘れてしまうのに。
翌週の火曜、同じ角に、同じコートの男が立っていた。
まるで私を待っていたみたいに。