水族館に通ううち、私は少しずつ、藍の仕事を手伝うようになった。
弱った言葉に餌をやる。餌は、来館者の「思い出」の欠片だと藍は言った。人が誰かを想うたび、その気持ちのかけらが水に溶けて、言葉たちの栄養になるのだという。
ある夜、水槽の一つが、ざわめいていた。
「めずらしいですね」と藍が言った。「返したいと願う人が多いと、言葉たちも騒がしくなる」
その水槽には、同じ言葉がいくつも泳いでいた。「元気ですか」「会いたい」「ごめんなさい」――どれも、遠く離れた誰かへ向けた言葉だった。
「今夜は、手紙の言葉が多いんです」と藍。「メールや電話じゃ言えなくて、手紙にも書けなかった言葉。そういうのは、群れて泳ぐんです」
そのとき、水族館の扉が開いて、年配の女性が入ってきた。杖をついて、ゆっくりと。
彼女は、震える声で言った。「ここに……娘への言葉が、ありますか。ずっと、喧嘩したまま、何年も口をきいていない娘への……」
藍は、水槽をじっと見つめ、やがて、一つの言葉をすくい上げた。
「これですね。『あなたが生まれてきてくれて、幸せでした』」
女性の目から、涙があふれた。
「そう……それが、どうしても、言えなくて。意地を張って、憎まれ口ばかり叩いて」
「言葉は、まだ光っています」と藍は言った。「今からでも、遅くありません」
女性は、その言葉を手のひらに受け取った。けれど、迷うように、握りしめた。
「でも、面と向かっては、やっぱり言えそうにない。あの子も、私の顔なんて、見たくないでしょう」
「それなら」と藍は微笑んだ。「言葉を、手紙に変えることもできます。声にできないなら、文字にして、届ければいい」
藍が、その言葉を水面に浮かべると、光が一枚の便箋の形に広がった。女性の想いが、文字となって、便箋に刻まれていく。
「これを、ポストに入れてください」と藍は言った。「言葉は、あなたの選んだ形で、ちゃんと届きます」
女性は、便箋を大事に胸に抱いて、何度も頭を下げて帰っていった。
言葉を返す方法は、ひとつじゃない。声でも、手紙でも、心でも。届けたいと願う限り。