働きはじめて、ひと月が過ぎた。私はこの店の仕事が好きになっていた。人がなくしたものを見つけ、そっと手渡す。誰かの心が、少しだけ軽くなる瞬間に立ち会える。就活の失敗で萎んでいた私の心も、少しずつ潤っていくようだった。
ある夜、うめさんが、めずらしく改まった顔で私を呼んだ。
「あかり。あんた、自分が何を落としたか、まだ思い出せないのかい」
私は、どきりとした。初めてこの店に来た日、うめさんは「あんた、何か落としたね」と言った。ずっと気になっていたけれど、自分では、わからなかった。
うめさんは、棚の奥から、一つの箱を取り出した。私の名前が書かれた札。《遠野あかりの、いちばん好きだったもの》。
「これはね、あんたがこの店に来る少し前に、拾ったものだよ。持ち主が来るのを待ってた」
私は震える手で、箱を開けた。中から、ふわりとあふれ出したのは——絵の具の匂いだった。
記憶が、一気によみがえった。子どものころ、私は絵を描くのが大好きだった。画家になりたいと思っていた。けれど、いつしか「絵じゃ食べていけない」という周りの声に押されて、その夢を、心の奥に押し込めてしまった。就活だって、本当はやりたくもない業界ばかり受けていた。
「私……絵を、描きたかったんだ」涙がこぼれた。「ずっと、忘れたふりをしてた」
「忘れものは、いつだって、いちばん大事なところに、ちゃんと戻ってくる」うめさんは優しく言った。「あんたは、拾いに来たんだよ。この店に導かれてね」
私は、絵の具の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。萎んでいたものが、ゆっくりと、色を取り戻していく気がした。
「うめさん、私……」
「いいんだよ」うめさんは笑った。「取り戻したもので、これからどう生きるか。それは、あんたが決めることさ」