第5話: 名前を知らないまま

梅雨が明けても、七海は店に通い続けた。

いつしか水曜以外の夜にも顔を出すようになり、冬野もそれを咎めなかった。むしろ、七海が来ない夜は「昨日はどうした」と聞くようになっていた。

ある夜、常連らしい年配の男性客がやってきた。冬野と親しげに話す様子から、古い付き合いなのだろう。

男性が帰ったあと、七海は尋ねた。

「冬野さん、お友達多いんですね」

「客だ。友達じゃない」

「わたしも、客ですか」

冬野は答えなかった。針を落とす手が、少しだけ遅くなった気がした。

その夜のリクエストを、七海はこう伝えた。

「誰かのことを、もっと知りたくなる曲」

冬野の眉が、かすかに動いた。彼はしばらく棚の前で迷い、やがて一枚を選んだ。流れてきたのは、切ないほど甘いラブソングだった。

歌詞は英語で、意味はほとんどわからない。それでも、旋律だけで胸が締めつけられた。

「これ、なんて曲ですか」

「知らなくていい」冬野は言った。「知ってる曲だと、思い出すから」

初めて会った夜と、同じ言葉だった。

「でも」と七海は食い下がった。「わたしは、思い出したいことが、あんまりないんです。だから、知ってもいいですか」

冬野はこちらを見た。目が合ったのは、久しぶりだった。

「……いつか、教える」

「いつか、っていつですか」

「あんたが、この店を必要としなくなったとき」

寂しい答えだった。まるで、いなくなることを望んでいるみたいに聞こえた。

七海は、名前を知らない曲を、名前を知らないまま抱きしめた。冬野の過去も、この曲の名前も、まだ知らない。それでも、この夜が愛おしいことだけは、はっきりとわかった。

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