私たちのあいだには、いつしかいくつかのルールができていた。
連絡先は聞かない。名前も本名は明かさない。会おうとはしない。あくまで、川を挟んだこの距離のままでいる。
最初にそれを提案したのは向こうだった。《このままがいいと思うんです。近づいたら、たぶん壊れる》。紙にそう書かれたとき、私は少し寂しく思いながらも、深くうなずいていた。彼の言うことは、痛いほどわかった。
昼間の私は、まわりの期待に応えることに疲れきっていた。優秀な看護師でいること、明るくいること、恋人にはやさしくあること。かつて付き合っていた人には「本音が見えない」と言われて別れた。私は本音を見せるのが下手なのだ。
でも、対岸の彼には、なぜか何でも書けた。今日、患者さんを見送ったこと。夜勤明けに泣きそうになったこと。誰にも言えなかった弱音を、大きな字にして掲げると、彼はいつも静かに受けとめてくれた。
《それは、あなたがちゃんと人を大事にしてる証拠ですよ》
そんな言葉が、どれほど私を救ったかしれない。
私たちはお互いを「対岸さん」と呼び合うことにした。彼は私を《七階さん》と呼んだ。私が七階に住んでいるからだ。
《七階さんは、どんな顔をしてるんだろう》
ある夜、彼がそう書いた。すぐに、慌てたように二重線で消して、下に付け足した。《すみません、ルール違反でした》
私は笑って、大きな紙に書いた。《想像しててください。きっと、実物よりずっといい》
向こうの窓辺で、彼が笑っているのが、なぜか見えた気がした。距離があるからこそ見えるものが、確かにあった。