彼の名前を知ったのは、偶然だった。
その日、彼はカードの支払いを選び、私が受け取った控えに印字された名前を見てしまった。藤代 律。ふじしろ りつ、と読むのだろうか。
「藤代さん」
思わず口にしてしまい、慌てて手で口を押さえた。彼は少し驚いた顔をして、それからくすりと笑った。
「そうか、レシートに名前が出るんでしたね」
「すみません、勝手に」
「いいえ。むしろ、名前を呼んでもらえて嬉しいです」
その言葉に、私は返す言葉を失った。名前を呼ぶ、というのはこんなにも近い行為だったのか。
「僕も、あなたの名前を知りたいな」
胸元の名札を指されて、私は少し照れながら答えた。
「七海です。海の七つ、で七海」
「七海さん。いい名前ですね。花屋なのに、海だ」
他愛のない言葉なのに、彼が私の名前を口にした瞬間、店の空気が少しだけ変わった気がした。花の香りがいつもより濃く感じられた。
その日、彼が選んだのは青いデルフィニウム。花言葉は「あなたは幸福をふりまく」。私がそう伝えると、彼はしばらくその花を見つめて、静かに言った。
「そうだといいな」
どこか寂しさを含んだ声だった。大切な人に、幸福を。彼の一輪の花には、いつも祈りのようなものが込められているのかもしれない。
藤代さんが帰ったあと、私は青い花びらをそっと撫でた。彼の背負っているものを、まだ何も知らない。それでも、知りたいと思っている自分がいた。