水曜の夜が、七海の習慣になった。
仕事を終え、あの地下へ降りていく。冬野は毎回「終電、まだあるでしょう」と言い、七海は毎回「来ちゃいました」と答える。それが二人の挨拶みたいになっていた。
ある夜、七海は思いきって言ってみた。
「わたし、リクエストしてもいいですか」
冬野は少し驚いたように顔を上げた。
「曲名も、アーティストもわからないんです。でも、こういう気分の日に合う曲、ってお願いするのは、だめですか」
「どういう気分」
七海は言葉を探した。
「疲れてるけど、悪い一日じゃなかった、みたいな。ほっとしてるけど、少しさみしい……そんな夜です」
冬野はしばらく棚の前に立ち、指先で背表紙をなぞっていた。やがて一枚を抜き取り、針を落とす。
流れてきたのは、ゆったりとしたギターの旋律だった。夜風のように、優しくて、どこか切ない。
七海は目を閉じた。まさに、今日の気分そのものだった。どうして、と聞きたかったけれど、聞けば魔法が解けてしまう気がした。
「当たり?」冬野が言った。
「大当たりです」
少しだけ、冬野の口元がゆるんだ気がした。初めて見る表情だった。
「じゃあ、これからは一日一曲、リクエストにこたえる。ただし一曲だけだ」
「どうして一曲?」
「たくさん流したら、選ぶ意味がなくなる」冬野は言った。「一曲だけだから、その日のあんたのために選べる」
その言葉の意味を、七海は帰り道でずっと考えていた。
一日一曲。その日のわたしのために。
たった一曲のはずなのに、その約束は、七海の一週間をまるごと明るくした。次の水曜が、待ち遠しくてしかたなかった。